江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

熊本近代洋画の発展に寄与した青木彜蔵と伊藤直臣

青木彜蔵「孔子画像」熊本県立済々黌高等学校蔵

熊本洋画は黎明期を経て、次第に近代化への道を進んでいくが、その啓蒙的な役割を担ったのが、美術学校で学んだのち郷里に戻ってきた洋画家たちだった。彼らの働きにより、熊本洋画は飛躍的な発展をみせるようになる。

明治25年に上京し、小山正太郎主宰の不同舎に学び、アカデミックな技法を身につけて帰郷した青木彜蔵(1872-1940)は、熊本における初の総合美術団体である「九州美術会」を中心になって創設、毎年秋に「九州美術展覧会」の名称で展覧会を開催した。これが熊本での初めての公募展とされており、青木をはじめ、武藤直、美作武雄、志賀九十郎、富田至誠らが洋画部門で指導的役割を果たした。

また、伊藤直臣(1892-1980)が結成した「カスミ画会」は、東京から黒田清輝、岡田三郎助らの作品を借用し、自分たちの作品とともに、熊本市の物産館において展覧会を開催した。日本の近代洋画先駆者の作品を熊本に紹介したことは、以後の熊本洋画史に少なからぬ影響を与えた。さらに伊藤は「フィデリオ社」を結成、東京の細川家からセザンヌ、マチスらの洋画を借用して県会議事堂で展示、熊本ではじめて本物の西洋絵画を紹介した。伊藤の投じた一石は青木同様、熊本近代洋画の発展に大きく寄与したといえる。

青木彜蔵(1872-1940)
明治5年熊本市生まれ。洋画を志すため中学校を退学し、同校教授だった笠井直について学んだ。明治25年に上京、笠井の勧めで小山正太郎の不同舎に入門した。ここで中村不折と出会い、親交を深めた。明治27年熊本に帰り、済々黌、九州学院で図画を教えた。九州学院在職中、九州美術会(熊本美術会から改名)を組織し、毎年秋に総合的な分野にわたる公募展「九州美術展覧会」を開催、熊本の美術活動の隆盛に貢献した。晩年は水墨画も手掛けた。昭和15年、68歳で死去した。

伊藤直臣(1892-1980)
明治25年宇土市生まれ。家は代々細川藩宇土支藩藩士。八代中学校在学中にグループ「カスミ画会」を結成。卒業後上京し、早稲田大学文科予科に入学したが2年で中退。この頃知遇を得た高村光太郎に師事した。一時期日本美術院で彫刻も学んだ。その後、文芸雑誌客員、通信記者、美術雑誌編集者などを経て、大正10年熊本に帰り、詩作と画作に没頭、この頃「フィデリオ社」を結成した。昭和7年から約5年間富士山麓にアトリエを構え、富士山を描き続け、昭和12年から3年間は阿蘇宮地で制作。以後熊本市に定住した。戦後は、九州文化人協会の創設に参加、ここから美術部門を独立させて熊本県美術協会を設立、創立委員となった。昭和30年には伊藤洋画研究所、真美社を主宰し後進の指導にあたった。昭和55年、88歳で死去した。

武藤直(1880-1944)
明治13年熊本市生まれ。15歳のころから近藤樵仙について絵を学んだ。明治36年済々黌を卒業し上京、東京美術学校西洋画科に入学した。卒業後は熊本に帰り、鹿本中学校の図画教師となった。大正15年同校を辞職し、九州女学院の創立とともに同院につとめた。鹿本中学校時代の教え子に大森商二、大津逸次らがいる。昭和19年、64歳で死去した。

大津逸次(1891-1961)
明治24年山鹿市生まれ。鹿本中学校卒業後上京、大正3年に東京美術学校西洋画科に入学した。卒業後は文部省留学生として里見勝蔵らとともに渡欧し、この間にマルケに強い影響を受けた。帰国後しばらく郷里で生活するが、昭和3年写生旅行のため朝鮮に渡り、そのまま終戦まで朝鮮で教職についた。昭和20年熊本に帰り、翌年熊本県美術協会の創立委員になった。以後、鹿本高等学校、信愛女学院で美術教師をつとめた。昭和36年、70歳で死去した。

外山佐傳(1892-1955)
明治25年菊菊池市七城町生まれ。旧姓隈部。明治43年鹿本中学校卒業後、東京美術学校西洋画科に入学。卒業後は、千葉県、広島県の中学校教員を経て、熊本に帰り、玉名中学校、鹿本中学校で図画を教えた。教員時代の教え子に川本末雄(玉名中時代)、大塚耕二(鹿本中時代)がいる。晩年は仏画を描いた。左利きの剣道の名手としても知られた。昭和30年、63歳で死去した。

富田至誠(1897-1949)
明治30年鹿本郡鹿本町生まれ。旧制は松尾。大正4年鹿本中学校卒業後、東京美術学校西洋画科に入学。卒業後は熊本に帰り、没するまで御船中学校につとめた。九州美術会後半のメンバーとして活動した。御船中学校時代の教え子に、井手宣通、浜田知明らがいる。昭和24年、52歳で死去した。

熊本(18)-画人伝・INDEX

文献:熊本県の美術熊本の近代洋画