竹冨清嘯(1833-1899)は、梶山九江とともに、明治期の熊本南画の双璧と謳われているが、九江が藩御用絵師の家に生まれ、門人も多数育成、明治中期の南画界を背負ってたった存在だったのとは対照的に、貧苦のなかで独学したが、郷里では認められず不遇のなかに旅先で客死した異才の南画家である。
清嘯は13歳の時、熊本に出て商家に丁稚奉公した。ここでの仕事は12年に及び、25歳の時に結婚を機に独立、豆腐屋や綿打業を営んだが長く続かずに廃業、続いて筆墨、書画刀剣の行商に転じた。書画への情熱が高まったのはこの頃からであり、明治初年、理三と改名し、嘯山と号したが生活は困窮を極めた。
清嘯が本格的に南画を描くようになったのは、明治10年の西南戦争の後に清国に渡り、一年間胡公寿に師事してからである。この清国行きの費用は、西南戦争官軍戦没者の墓碑名の揮毫を依頼され、その多額の報酬をもとにしたという。天野方壺、清水赤城とともに長崎を経て中国に渡り、念願の清国遊歴を果たした。帰国後は号を清嘯に改め、画事に専念、九州各地や京阪地方を訪れ、各地の文人墨客と交友して画技を磨いた。
また、同世代の南画家に菊池の山田王延章(1831-1903)がいる。王延章は家業を継いで医師となったが、やがて詩書画に専念するようになり、諸国を漫遊して南画精神を培った。生涯田能村竹田の精神を学ぶことを目標にしていたといい、儒学を精神的支柱として画業を展開した。
竹冨清嘯(1833-1899)
天保4年五十五家荘(現在の球磨郡五木村)生まれ。名は祥、字は子謙、通称は理三。のにち嘯山、清嘯と号した。弘化4年、13歳の時に熊本市の豊前屋に丁稚奉公し、安政5年、結婚を機に豊前屋から独立、豆腐屋、綿打業を営んだ。明治10年、西南戦争官軍戦死者の1000余基の墓碑名を揮毫し、報酬を得てそれを元に清国に渡り一年間滞在した。この間、胡公寿に師事、帰国後に清嘯と号した。家人に行く先も告げずに、ふらりと家を出る癖のあった清嘯は、その後もたびたび熊本を離れ、明治32年、広島において66歳で死去した。
山田王延章(1831-1903)
天保2年菊池市生まれ。名は終吉。家業は代々医者。別号に北岳外史、王鶴、一楽翁、鶴洲王孟経などがある。父守敬は医業のかたわら私塾「精義堂」を開き、漢学、医学を教ていた。兄が病身のため途中から家業を継いだが、のちに医業を離れて詩書の専念するようになり、諸国を遍歴して詩文書を習得した。生涯その目標とするところは田能村竹田の精神を学ぶことにあったと伝えられる。明治36年、73歳で死去した。
熊本(10)-画人伝・INDEX