肥後出身の天台宗の高僧・豪潮(1749-1835)は、書画もよくした。豪潮は天台宗の僧だが、その画題には、禅宗的(釈迦三尊や羅漢図)なものが多くみられる。これは豪潮が交友した珍牛や仙崖ら禅僧の影響と思われる。柔軟性のある筆法がその特徴で、画僧で知られる白隠や仙崖のように、近世の画僧の系譜の中で見直されつつある画僧である。
また、細川家の宇土支藩第六代藩主・細川月翁(1723-1785)は、幼いころから学問を好み、詩書をよくした。好んで蘭を描き、永青文庫には福田太華と合作した四君子(蘭・竹・梅・菊)の屏風が残っている。月翁の画事は18世紀半ばに始まっており、この頃は彭城百川、池大雅、与謝蕪村らが活躍した頃であり、これが熊本における文人画のさきがけといえる。
豪潮(1749-1835)
寛延2年玉名郡生まれ。天台宗の高僧。7歳の時、繁根木山壽福寺の豪旭の下に入り、快潮と名付けられ、戒名を「豪潮」と授かった。16歳で比叡山に登り正覚院執行探題豪恕大僧正のもとで修行を積んだ。28歳の時に師の豪旭の病気により帰郷、壽福寺の住職となった。すでにその名は九州各地に知られ、各地に招かれ加持を持った。晩年は、尾張徳川家より要請があり尾張に赴いた。天保6年、87歳で死去した。
細川月翁(1723-1785)
享保10年生まれ。肥後国宇土藩主・細川興生の三男。名は興文。月を愛し、月翁と号した。別号に桂源山人、青山、青城、蘭雪居、蕉夢庵主人などがある。延保2年、江戸において宇土支藩を襲封し、寛延3年にはじめて宇土に赴き、宇土藩第五代藩主となった。その後窮迫した藩財政を刷新し、殖産興業や教育制度を確立して名君と讃えられた。茶道を好み、文武両道で知られる。二男の立礼に家督を譲ってからは文化人として生き、建築・作庭を自ら指示し「蕉夢庵」(不知火町桂原)を建設したほか、君主の理想像に例えられる蘭を、特に好んで描いた。天明5年、62歳で死去した。
熊本(6)-画人伝・INDEX
文献:肥後の近世絵画、第5回豪潮展~仏教画の世界~