徳弘董斎(1807-1881)は、御持筒で南画をよくした徳弘石門(1777-1825)の長男として生まれ、土佐藩に西洋流砲術をもたらした。龍馬や龍馬の兄・権平ら多くの門人に砲術を教えている。父の影響で早くから絵筆を持ち、江戸で容堂の下に出入りしていた春木南湖に学んだ。明治になり役を解かれてからは、清香園という風雅な隠居に画処を設けて画を遊んだ。激動の時代のただなかにありながら、その影さえ見えないほどの気品のある山水画を描いた。門人には、吉岡竹澳、浜田墨雲、武市瑞山、依光墨山、岩井王山、南部錦溪、日比野逸亭、一円若蘭、吉井源太、宮崎八矛、今橋自安、松岡用拙、森田皆山、長屋海田、本山茂任らがいる。
徳弘董斎(1807-1881)
文化4年中須賀生まれ。徳弘石門の長男。母は福見氏。通称ははじめ孝太郎、のちに祥吉、賀太夫、孝蔵と改め、維新後には益孝と改称した。字は巽甫、あるいは貞吉。別号に石城、帆影楼、聴松亭、賜硯堂などがある。家は代々砲術を伝える家柄で、文政8年に家督を継いで土佐藩筒持役をつとめた。職務のかたわら狩野派の技法を学んだが、天保年間の末、藩命により江戸に出て、オランダ式砲術を学ぶ一方で、画僧・光明寺雲室の門に入り、画を学び、画人として高い評価を得た。坂本龍馬は砲術の弟子、武市瑞山(武市半平太)は画の弟子である。明治14年、75歳で死去した。
徳弘石門(1777-1825)
安永6年生まれ。名は共、本名は保孝、通称ははじめ直蔵、のちに庄九郎。代々砲術家で城西中須賀に住んでいた。幼いころから画を好み、狩野美信の門人・松崎敬信について学んだ。のちに江戸に出て石里洞秀の教えを受けた。洞秀に「子は専門の徒にあらず画を以て生涯の楽慰とせんには漢画に如かず」と言われ、反省して改めて広瀬臺山、光明寺雲室、春木南湖らの門に出入りして南画を学んだ。文政8年、49歳で死去した。
吉岡竹澳(1817-1892)
文化14年生まれ。通称は与八郎、名は斐。晩年は住々澳翁と称した。徳弘董斎に画を学び、特に山水を得意とした。明治25年、76歳で死去した
浜田墨雲(1824-1892)
文政7年生まれ。釈名は諦鏡、のちに還俗して浜田一策と称した。別号に桃渓、筆、墨闘僊、天竺浪人などがある。浜田徳兵衛の二男。幼くして父母をなくし、勉学ののちに高岡郡須崎町大善寺の住職となった。画は徳弘董斎に学び、山水人物をよくした。また俳句、茶道も好んだ。明治維新後の廃仏毀釈に際して還俗し、須崎に住んで紺屋を業とした。明治25年、70歳で死去した。
土居松鱗(1828-1885)
天保4年生まれ。通称は寅之進、のちに上吉。代々長岡郡十市村字本村に住む郷士で、かたわら農業をしていた。幼いころから画を好み、徳弘董斎の門に入ったが、林洞意(絵金)の人物画を見て大いに感ずるところがあり、嘉永2年洞意の門に転じた。第2回絵画共進会で褒状を受け、晩年も期待されたが病気になり、明治18年、53歳で死去した。
依光墨山(1852-1890)
嘉永5年生まれ。名は甚之丞。安芸郡安芸町の依光作八の子。明治元年岡栄蔵に人物花鳥を学び、明治13年から徳弘董斎に山水を学んだ。明治23年、39歳で死去した。
岩井王山(1859-1933)
安政6年生まれ。名は直、通称は直吉。はじめ徳弘董斎に学び、のちに橋本小霞に師事した。小霞没後は、高知に来ていた名草逸峰につくが、逸峰が去ると現在の山口県に向かい、大庭学僊に入門、人物画を学んだ。学僊没後は、京都の田能村直入に入門しようと高松まで出るが、旅館の主人にすすめられ、明石の細谷立斎に会い、気脈が通じ、私淑して勉学、独自の画業を完成させていった。明治期には土陽美術会で活躍した。昭和8年、75歳で死去した。
高知(14)-画人伝・INDEX
文献:土佐画人伝、坂本龍馬の時代 幕末明治の土佐の絵師たち、近世土佐の美術、海南先哲画人を語る