日本近代洋画の黎明期、鹿児島からは黒田清輝、藤島武二ら多くの著名洋画家が出て美術史に名を残したが、黒田や藤島よりも早く、鹿児島の画家で初めて油彩画を描いたのは、司法省に入り、検事や判事をつとめていた床次正精だった。庄次は、独学で洋画を学び、技術的には洗練されていないが、素朴で魅力あふれる作品を残している。
鹿児島市に生まれた床次は、はじめ地元の狩野派・能勢一清に就き日本画の画法を学んだが、藩命によって派遣された長崎のグラバー邸で洋画を見たことがきっかけで、洋画に関心を持つようになった。洋画の写実性に深く感動した床次は、客観的な写実性こそが洋画の本質と理解し、以後の自らの画風とした。
幕末から明治にかけて、禁門の変、戊辰戦争に従軍した床次は、その後しばらく故郷の鹿児島で過ごし、明治5年に上京して司法省に勤務、検事や判事をつとめた。公務のかたわら洋画の技法を研究していたが、正式に学んでいなかったことから、イタリアへの留学を決意、準備を進めていたが、友人の借金の連帯保証人となったことから、その肩代わりのため屋敷を手放し、生活は困窮し、留学は叶わなかった。
そのような状況のなかでも画業は続け、伊藤博文ら政治家の肖像画を多く手がけて評判となった。「西郷肖像」(掲載作品)は、生前の西郷を知る床次が下図を描き、それを西郷従道や黒田清輝の保証を得て完成させたもので、数ある西郷像のなかでも生前の西郷をもっともよく写すとされ、キヨソーネの西郷像に勝るといわれている。
床次正精(1842-1897)
天保13年鹿児島市生まれ。旧姓は児玉。万延元年、床次家の養子となった。7歳の頃から実家の隣に住んでいた狩野派の絵師・能勢一清に学んだ。慶応元年、藩命によって長崎に赴きグラバー邸で西洋絵画を見てその写実性に驚き、以後独学で洋画を研究した。戊辰戦争に従軍し、明治5年司法省に勤務。明治8年、宮城上等裁判所に勤務。公務のかたわら梶原昇と洋画の研究。明治12年アメリカの前大統領グラント来日の際、その肖像を描き評判となった。翌年「三田製紙所」を描いた。明治22年憲法発布のときは勅命で式場、ご祝宴の図を描いた。明治30年、56歳で死去した。
鹿児島(31)-画人伝・INDEX
文献:黎明館収蔵品選集Ⅰ、鹿児島市立美術館所蔵作品選集、かごしま文化の表情-絵画編、床次正精「憲法発布式図」について