江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

写実的遠近法を用いた柳田龍雪

柳田龍雪「霧島栄之尾之図」の「うち桜島遠望図」尚古集成館蔵

木挽町狩野家最後の当主となった十代狩野勝川院雅信に学んだ薩摩の絵師としては、柳田龍雲、谷山龍瑞、有田養圓がいる。柳田龍雪(1833-1882)の父親は刀具彫刻を営んでおり、龍雪もはじめは銅版彫刻をもって藩に仕えていたが、その後江戸に出て狩野勝川院雅信の門に学び、帰郷後の文久元年、藩の奥絵師として召し抱えられた。

龍雪は、江戸末期において島津家の重要な御用絵師だったと思われ、島津家の所蔵品を管理する尚古集成館には、龍雪の作品「英艦入港戦争図-薩英戦争絵巻-」「霧島栄之尾之図」の2点が収蔵されている。明治4年には西洋画法を学ぶように命じられて上京、翌年以降は海軍省や印刷局石版科につとめるが、それ以後も島津家の命によって絵画制作にあたっている。

「霧島栄之尾之図」は、横長の三幅で、それぞれ「桜島遠望図」「霧島栄之尾図」「栄之尾島津館図」に、霧島栄之尾周辺の風景が緻密に描かれている。「桜島遠望図」(掲載作品)には、霧島から錦江湾ごしに桜島と遠く開聞岳まで望む景色が描かれており、狩野派の絵としては極めて自然な遠近法が取り入れられている。

柳田龍雪(1833-1882)
天保4年生まれ。薩摩藩御用絵師。父の柳田鉄之助は刀具彫刻を営んでいた。はじめ馬場伊歳に学び、その後江戸に出て狩野勝川院雅信の門に入った。別号に拓梁斎、一松斎がある。明治4年西洋画法を学ぶように命じられ上京、翌年海軍省に勤務。同年紙幣寮出任となり、翌年辞職した。明治7年再び紙幣寮に勤務し、同年石版科長となった。同年島津忠義が張行した犬追物の図を描いている。明治15年、50歳で死去した。

谷山龍瑞(1832-1891)
天保元年生まれ。谷山探成の子。父に学び、のちに狩野勝川院雅信の門人となった。嘉永5年から3年間全国を遊歴した。明治24年、62歳で死去した。

有田養圓(不明-不明)
狩野勝川院雅信の門人。別号に養道がある。

鹿児島(19)-画人伝・INDEX

文献:薩摩の絵師、美の先人たち 薩摩画壇四百年の流れ、かごしま文化の表情-絵画編、薩藩画人伝備考、薩摩の書画人データベース