江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

風流を好んだ松平左近と讃岐の勤王家たち

松平頼該 左:瓢鮎図、右:松に鶴図

松平頼該(1809-1868)は高松藩八代藩主・松平頼儀の長男として江戸小石川高松藩邸に生まれ、のちに「左近」と改名した。文武両道で、書画、和歌、俳句、茶道、華道、魚釣りなど、なんにでもひとかど以上の心得があった。住居である亀阜荘内には、能及び芝居舞台をつくり、演劇を開催した。左近みずから女形を演じるなどして、階級を問わず多くの人に公開し、人々からは「左近さん」と呼ばれ親しまれた。小国広太郎の変名も使い、勤王の志士たちとも連絡をとった。志士として活動した讃岐の日柳燕石、美馬君田らも、左近同様に風流を好み、書画をよくした。

松平頼該(1809-1868)まつだいら・よりかね
文化6年生まれ。生母は山崎綱子(のちに蔦子)。名は頼該、号は金岳、通称は隆之丞・道之助、のちに左近と称し、8歳の時に高松に帰り城内に邸を構えた。文政4年頼恕が水戸から入って頼儀の跡を継いで、頼胤がその嗣子となったため、左近は嗣子になれず隠居の身となった。天保10年、左近31歳の時に亀阜荘に移り、のちに「左近」と改名した。慶応4年、60歳で死去した。

日柳燕石(1817-1868)くさなぎ・えんせき
文化14年生まれ。本姓は草薙、のちに日柳と改めた。名は政章、字は士煥、または耕吉、通称は長次郎。別号に柳東、三白、半楽居などがある。仲多度郡榎井村の人。勤王家として名を知られた。詩文に巧みで、画をよく描いた。慶応4年、53歳で死去した。

美馬君田(1812-1874)みま・くんでん
文化9年生まれ。本姓は鎌田。名は諧、字は和甫、通称は援造。別号に土佛、櫻水がある。阿波美馬郡の人。琴平に移り住んだ。日柳燕石と交友し、慶応元年に高杉晋作をかくまった罪で高松藩に捕らえられ、燕石とともに投獄された。詩文に巧みで、画をよく描いた。明治7年、63歳で死去した。

日柳三舟(1839-1903)くさなぎ・さんしゅう
天保10年仲多度郡榎井村生まれ、大阪に住んだ。名は政愬、字は終吉、通称は復太郎。日柳燕石の子。別号に玉城がある。詩文、画をよくした。明治36年、65歳で死去した。

葛西省斎(1820頃-1884)かさい・せいさい
文政3年頃生まれ。名は清、通称は俊助。別号に一壺翁、半枯翁などがある。藩の侍医。片山冲堂、日柳燕石と交わり、詩文書をよくし、画も得意で墨竹をよく描いた。『画竹二十字集』の著書がある。明治17年、65歳で死去した。

香川(13)画人伝・INDEX

文献:讃岐画家人物誌、讃岐の文人画展