江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

讃岐の南蘋派、三木文柳・亀井東溪・戸塚茗溪

三木文柳「鮮魚図(鯛鱸海老図)」

讃岐の南蘋派画人としては、三木文柳(1716-1799)と亀井東溪(1748-1816)が知られている。文柳は、もと阿波の藩士で、幼いころから画を好み、京都に出て修業し、江戸に出て南蘋派の画人である宋紫石の門人となった。その後、小豆島池田の光明寺に寄宿し、ついで北地に家を持ち永住したとされる。亀井東溪は、高松城下南新町に生まれ、幼いころから画才があり、京都や長崎に学び、沈南蘋に倣い、特に花鳥昆虫に優れ、八代藩主・松平頼儀によって士分にとりたてられた。著書『東溪画譜』は広く世に知られ、その子・竹溪も画に優れていた。門人としては渡辺雲窩や多田溪雲がいる。高松藩留守居寄合として江戸に住み、南画に南蘋派の画風を取り入れ、山水、花鳥を得意とした戸塚茗溪(1809頃-1854)もいる。

ほかに、長崎派の画人としては、木下逸雲に学んだ中條雲堤や、鉄翁祖門・木下逸雲の門人と交友した向井竹斎がいる。

三木文柳(分流)(1716-1799)みき・ぶんりゅう
享保元年生まれ。小豆島池田に住んでいた。分流とも表記した。別号に宋庵斎がある。宋紫石に師事、平賀源内とも交流があった。動物画を得意とした。寛政11年、84歳で死去した。

左:亀井東溪 「夾竹桃と鶏図」、右:戸塚茗溪「青緑山水図」

亀井東溪(1748-1816)かめい・とうけい
寛延元年生まれ。高松城下南新町の人。名は載、字は坤臣、通称は平蔵。もともとは小倉姓だったが、亀井に改めた。幼いころから画才があり、長町竹石とともに京都や長崎で学んだ。沈南蘋の画風を慕い、特に花鳥昆虫にすぐれた。高松の絵師として同郷の竹石に並び称された。著書に『東溪画譜』がある。文化13年、69歳で死去した。

戸塚茗溪(1809頃-1854)とつか・めいけい
文化6年頃生まれ。名は榮之、通称は門吉。別号に片石山房がある。高松藩留守居寄合。江戸に住んで山水、花鳥、人物をよくした。安政元年、46歳で死去した。

亀井竹溪(1784頃-1847)かめい・ちくけい
天明4年頃生まれ。名は暾、字は東白。亀井東溪の子。弘化4年、64歳で死去した。

保井錦江(不明-不明)やすい・きんこう
大川郡三本松村の人。沈南蘋に私淑して画をよくした。明治初年頃に死去した。

原田玉芝(1792頃-1844)はらだ・ぎょくし
寛政4年頃生まれ。丸亀の人。通称は鉄吉。別号に有隣がある。沈南蘋の画を描いた。天保15年、53歳で死去した。

中條雲堤(不明-1866頃)ちゅうじょう・うんてい
木田郡氷上村の人。名は直。若くして長崎に遊び、木下逸雲に従い画を学んだ。慶応2年、師に従って江戸に遊び、船で帰る途中に強風のため船が転覆、師とともに没したと伝わっている。

向井竹斎(不明-1859)むかい・ちくさい
木田郡庵治村釜野の人。名は照、通称は亀治郎。たびたび長崎に行って、鉄翁祖門、木下逸雲の門人と交友した。安政6年長崎において死去した。

香川(8)画人伝・INDEX

文献:讃岐画家人物誌、讃岐の文人画展、描かれし美の世界