江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

川口月嶺の門人たち

沢田雪嶺「那須与一図」

川口月嶺の門人には、実子の川口月村のほか、太田玉嶺、船越月江、沢田雪嶺、原衡岳、金矢桃渓、戸来錦嶺、北條玉洞らがいた。船越月江(1830-1881)と金矢桃渓は、嘉永4年に竣工された盛岡城本丸大奥の障壁画の制作に、師の月嶺とともに参加している。また、月江と沢田雪嶺(1825-1877)は弘化年間から行なわれた藩の再検地に吟味役として参加し、村絵図などの図面類に名前が記されている。

戸来錦嶺は、盛岡の人で、通称は規一といい、湯川玉僊に学んだのち月嶺に師事した。晩年仕官して作品は多くないと伝わっている。北條玉洞は盛岡に生まれ、はじめ平塚研樵と川口月嶺に学び、その後、川端玉章に入門した。開拓使として函館に渡り、函館青柳町に北海道最初の絵画専門学校を開校した。さらに函館商業学校、函館中学、函館高女の図画教員をつとめ、田辺三重松らを育てた。

沢田雪嶺(1825-1877)さわだ・せつれい
文政8年生まれ。金山吟味役をつとめた沢田文四郎の子。通称は市郎太。嘉永元年家督を相続し、翌年から安政元年まで奥御用部屋物書をつとめた。明治維新後、雪嶺を本名とした。明治10年、53歳で死去した。

船越月江(1830-1881)ふなこし・げっこう
文政13年生まれ。鹿角郡の青山金左衛門の二男。通称は善治、善四郎といい、長善と名乗った。盛岡藩藩士の船越五郎右衛門の養子となり、嘉永3年に家督を相続した。会計と測量に長じ、文久2年に新田奉行、慶応元年に沼宮内御蔵奉行、翌年花輪通代官所下役、慶応3年に田名部山奉行を歴任。盛岡城大奥普請工事では、金矢桃渓とともに師の月嶺を手伝った。明治時代に入り、一時盛岡県会計主事をつとめたのち、北海道に渡った。明治6年北海道の開拓使に入り測量技師となった。明治6年、52歳で死去した。

岩手(12)-画人伝・INDEX

文献:盛岡藩の絵師たち~その流れと広がり~、青森県史 文化財編 美術工芸、藩政時代岩手画人録