江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

江戸後期の盛岡藩を代表する絵師・川口月嶺

川口月嶺「大沢八景図」のうち「檜葉森紅葉」 和歌は小本政徳で「もりの名のひばもかずゝゝ顕はれて木末残らずもみぢする頃」

川口月嶺「大沢八景図」のうち「曲橋納涼」 和歌は野々村良檠で「石はしる川音のみかすゞしさは夕風渡るわたはしのもと」

川口月嶺「大沢八景図」のうち「麓清水」 和歌は江刺恒久で「くむ人はあした夕べにおほさはのいでゆのもとの山のゐの水」

川口月嶺(1810-1871)は、現在の秋田県鹿角市花輪(旧盛岡藩領)に生まれ、江戸で四条派を学んだのち、藩主・南部利済の御側役として盛岡城大奥の障壁画制作などに携わった。それまでの藩内の主流は狩野派だったが、利済が月嶺を重用したため、月嶺に弟子入りする者が増え、盛岡藩に四条派の画風が広まったといわれている。

月嶺は、幼いころから絵を好み、絵を描くこと以外には熱心でなく、奉公に出されてもうまくいかなかったという。18歳の時に画業を志して故郷を離れ、秋田から山形を遊歴して江戸に出て、20歳で四条派の絵師・鈴木南嶺に師事し、師の一字を与えられ「月嶺」と号したと伝わっている。

修業のために諸国を漫遊したとされ、天保15年には、烏山(現在の栃木県那須烏山市)に滞在して当地の粕谷忠右衛門の娘・静を妻とした。弘化2年には長男の亀次郎(月村)が生まれたが、間もなく烏山を離れ、奥州街道を下って帰郷した。帰郷の理由は明らかではないが、翌年には盛岡藩に召し出され、烏山から妻子をよびよせて盛岡を活動の場とした。

狩野派の絵師の多くが、絵手本や古画の模写に終始したのに対し、写生を重視した円山応挙の流れを汲む四条派の月嶺は、多くの写生を残している。作品のなかには、「盛岡八景」や「大沢八景」など詩歌の題材となった景色を描いたものも多い。「大沢八景図」(掲載作品)は、慶応3年に湯治にいく藩主・南部利剛に随行して大沢温泉の八景を描いたもので、利剛をはじめ随行者が詠んだ和歌とともに、四季の変化に富む大沢温泉の景観を写生している。

川口月嶺(1810-1871)かわぐち・げつれい
文化8年陸奥国鹿角郡花輪村生まれ。麹屋・川口七之助の二男。通称は栄七、七之助(襲名)といい、有度、文紀と名乗った。別号に真象、午睡庵、若水、嘯瓢児がある。江戸の鈴木南嶺に入門して修業したのち関東方面を遊歴した。弘化3年盛岡藩に召し抱えられ、奥詰として藩主・南部利済と利剛に仕えた。嘉永4年に竣工された盛岡城本丸大奥の障壁画を手掛けた。文久4年から翌年にかけて江戸を経て京都に上った。慶応2年子の月村に家督を譲って隠居した。門人には、子の月村、太田玉嶺、船越月江、沢田雪嶺、原衡岳、金矢桃渓、戸来錦嶺、北條玉洞らがいる。明治4年、61歳で死去した。

岩手(10)-画人伝・INDEX

文献:絵師川口月嶺の職務-盛岡藩「覚書」「御側雑書」、盛岡藩絵師・川口月嶺のまなざし、郷土の画人・川口月嶺、川口家三代の画業、盛岡藩の絵師たち~その流れと広がり~、青森県史 文化財編 美術工芸、藩政時代岩手画人録、東北画人伝郷土の画人川口月嶺―川口月嶺絵画調査報告書 (1976年