高光一也(1907-1986)は、金沢市専称寺の住職の子として生まれ、石川県立工業学校図案絵画科に学んだ。同校卒業後は金沢市内の小学校の美術教師をしながら制作し、22歳の時に二科展に初入選し、これを機に中村研一に師事し、写実を基調とした力強い作風を学んだ。
昭和7年、25歳の時に石川県内在住作家として初めて帝展洋画部に入選し、画業一途に生きることを決意し、小学校の教師を辞職し、父のあとを継いで僧籍に入った。その後は3回目の入選で特選を得るなど、順調に実績を重ねていった。
戦後は、終戦直後の昭和20年10月に石川県美術文化協会を設立し、第1回現代美術展を開催。その翌年には金沢美術工芸専門学校(現在の金沢工芸美術大学)の創設に参加し、その後短大となった同校に小絲源太郎を主任教授として招くなど、後進の育成に尽力、石川県美術界の指導者としての役割を担った。
画風は、写実的な人物表現からフランス留学を経て、徐々に幾何学的単純さを見せはじめ、背景は抽象性を帯び、色彩も抑えめとなり、大胆に変貌していったが、昭和38年頃から再び具象の世界へと戻り、鮮やかな色彩を回復し、昭和46年には「緑の服」で日本芸術院賞を受賞、その翌年には高光の作品で最も華麗と評される「フードの女Ⅰ」(掲載作品)を発表した。
その画風が再び新たな展開をみせはじめるのは、昭和48年のスペインなどへの3カ月の取材旅行のあとで、その後は華麗な色彩は消え、穏やかな中間色への移行をみせはじめ、それまでの画風が渾然一体となった円熟期の画風へと熟成していった。
高光一也(1907-1986)たかみつ・かずや
明治40年金沢市北間町生まれ。真宗大谷派専称寺住職高光大船の長男。大正14年石川県立工業学校図案絵画科を卒業。昭和4年第16回二科展に初入選し、中村研一に師事。昭和5年飛鳥哲雄、新納琢川らと茜刺同人会を結成。昭和7年第13回帝展に初入選。昭和8年光風会展に初入選し以後、文展・日展とともに光風会展にも出品。昭和12年第1回新文展で特選。昭和20年高橋介州、相川松瑞らと石川県美術文化協会を設立。昭和21年金沢美術工芸専門学校(現在の金沢工芸美術大学)の創設に参加、講師となる。昭和22年第3回日展で特選。昭和29年から翌年までフランスに留学。昭和30年金沢美術工芸大学教授に就任、昭和44年名誉教授。昭和38年第6回新日展で文部大臣賞受賞。昭和46年日本芸術院賞を受賞、昭和54年日本芸術院会員。昭和61年文化功労者となった。昭和61年、79歳で死去した。
石川(45)-画人伝・INDEX
文献:金沢市史資料編16(美術工芸)、石川の美術-明治・大正・昭和の歩み、石川県立美術館名品図録