江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

妖艶で頽廃美漂う画風を展開し、画壇の悪魔派と呼ばれた北野恒富

北野恒富「暖か」滋賀県立美術館蔵

北野恒富(1880-1947)は、金沢市に生まれ、小学校卒業後に新聞の版下を彫る彫刻師をしていたが、画家を志して17歳の時に大阪に出て、金沢出身で歌川派の流れを汲む浮世絵師・稲野年恒に師事し、師と同様に当時流行していた新聞小説の挿絵を描き、挿絵画家として名をはせた。

明治43年には第4回文展で初入選を果たし、翌年の第5回文展で3等賞となり、一躍全国的に名を知られるようになり、本格的な日本画家としての地位を確立した。大正3年からは横山大観の誘いにより、再興院展の第1回展から出品し、没するまで同展に出品した。

恒富が活動を始めた明治後期の大阪では、東京や京都とは異なる画壇が形成され、若い画家たちが画壇の改革を目指して精力的に活動していた。恒富はそうした画家たちの中心的存在で、野田九浦、菅楯彦らと大正美術会や大阪美術会を設立し、大正7年には大阪茶話会を結成したほか、画塾「白耀社」では、子の北野以悦をはじめ、島成園、木谷千種、生田花朝女、樋口富麻呂、中村貞以ら後進の育成にもつとめ、大阪画壇の振興に尽力した。

その間、意欲的な創作上の実験を試み、明治末期から大正初期には、「画壇の悪魔派」と呼ばれた妖艶で頽廃美漂う画風を展開し、大正中期には古典学習も踏まえた内面性表現を深化させ、歴史に題材をとった「淀君」などの意欲作を発表した。昭和になると、大阪の商家などを題材に品格ある古典的画風を目指し、大阪モダニズムの「はんなり」とした画風に到達した。

北野恒富(1880-1947)きたの・つねとみ
明治13年金沢市生まれ。本名は富太郎。明治25年木版画版下業の西田助太郎に版下技術と南画を学び、明治30年彫刻師の中山駒太郎に伴い北国新報に勤務した。しかし、画家になる志をもって同年大阪に出て、翌年稲野年恒に師事した。師と同様に当時流行していた新聞小説の挿絵を描いていたが、明治43年第4回文展に初入選し、翌年の第5回展で3等賞を受賞して一躍有名となった。大正元年野田九浦らと大正美術会を結成、大正4年には大阪美術会を創立するなど大阪画壇の中心的存在となり画壇の発展に尽力した。また、横山大観に誘われ大正3年の日本美術院再興に参加し、大正6年に同人となり、以後没するまで再興院展を中心に活躍した。日本画を描く一方で、新聞や小説の挿絵、アール・ヌーヴォー風の商業ポスターも多く制作した。郷里金沢とは金城画壇展に特別会員として参加し影響を与えた。昭和22年、68歳で死去した。

参考:UAG美人画研究室(北野恒富)

石川(32)-画人伝・INDEX

文献:没後70年 北野恒富展、金沢市史資料編16(美術工芸)、石川の美術-明治・大正・昭和の歩み、新加能画人集成、石川県立美術館名品図録