江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

藩政期の金沢の景観や町人・武士たちの暮らしぶりを主題にした挿絵を描いた巌如春

巌如春「七夕」(儀式風俗図繪より)金沢大学附属図書館蔵

巌如春(1868-1940)は、金沢市竪町の浮世絵師の家に生まれた。巌家は、祖父・父の二代続けて御用槍師を営んでいたが、父の甚蔵は廃藩によって槍師を廃業し、梅翁と号して絵師に転職した。明治に入り消防十七組が結成されたときには、その纏印を考案するなど多才だったと伝わっているが、如春が10歳のとき、45歳で急逝した。

如春が絵師を生業として選んだのは、父の影響が大きかったと思われ、7歳で四条派の飯山華亭の門に入り、ついで佐々木泉龍から狩野派の手ほどきを受け、その後宮嶋恒信について浮世絵を学んだ。

町絵師として引き受けた仕事は多岐にわたり、芝居小屋や映画館の絵看板やプログラムをはじめ、仏画・吉祥画、友禅の下絵、芝居・浄瑠璃番付、金沢観光用のパンフレット、俳諧刷物・引札・双六、節供の幟旗、祭礼の行燈絵、絵馬、新聞連載小説挿絵など、庶民の暮らしを彩るさまざまな制作を手がけた。

大正期からは、藩政期の金沢の景観や町人、武士の暮らしぶりを主題にした挿絵を本格的に描くようになった。大正4年に結成された郷土史の研究団体である加越能史談会では理事をつとめ、郷土史関連の書籍の挿絵を徹底した考証のもと描いた。

また、展覧会の企画や飾りつけ、展示ジオラマの制作を中心となっておこない、大正12年の加賀藩遺物展覧会、大正15年の金沢古代風俗展覧会では、如春考案による年中行事コーナーや人形レプリカ展示が人気を集めた。

巌如春(1868-1940)いわお・じょしゅん
明治元年金沢市竪町生まれ。幼名は甚太郎、のちに甚蔵を襲名。生家の屋号は鵜飼屋。号は10代のときは琴信、18歳からは松翠・松翠堂、20代後半からは如春・四春園・衛門を用いた。はじめ四条派の飯山華亭に、ついで狩野派の佐々木泉龍に学び、その後宮嶋恒信について浮世絵を学んだ。明治13、4年頃から夷座、末広座の芝居の絵看板や活動写真の看板を描いた。師の華亭らが描いていた近江町の絵行燈も、明治42年頃からは如春が描くようになった。明治38年頃まで新聞小説の挿絵、明治43年頃まで雑誌で挿絵を描いた。金沢市史の挿絵、金沢の沿革図も描いた。大正4年創立の加能史談会の理事をつとめ、郷土研究の振興につとめ、地方文化の向上に貢献した。昭和15年、73歳で死去した。

石川(30)-画人伝・INDEX

文献:風俗画伯巌如春 都市の記憶を描く、新加能画人集成