江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

北陸に江戸琳派の画風を伝えた山本光一

山本光一「狐狸図」板橋区立美術館蔵

山本光一(1843?-1905?)は、江戸琳派を創始した酒井抱一の門人・山本素堂の長男として江戸に生まれ、抱一の名跡を守る「雨華庵」の三世・酒井鶯一の門に入り、父の素堂や外祖父の野崎真一に江戸琳派の画風を学んだ。雨華庵四世を継いだ酒井道一は実弟にあたる。

明治7年、国際的な博覧会への出品物を制作・輸出するために明治政府により「起立工商会社」が設立されると、光一は輸出工芸品の図案制作の画工として同社に携わり、図柄だけでなく、様々な洋風の器物の形も一緒に考案したり、金工から蒔絵まで多様な技法の製品化の要求に応えるなど、画工たちの中心的存在として幅広い仕事を手がけた。

明治24年に同社が解散すると金沢に居を移し、私塾・拈華会を主宰して日本画や友禅の若手作家を育成し、その間、金沢工業学校(現在の石川県立工業高等学校)や高岡工芸学校(現在の富山県立高岡工芸高等学校)でも図案絵画教師として後進の指導にあたり、北陸地方に江戸琳派の画風を伝えた。

それとともに精力的な制作活動を展開し、図案的なものはもとより、人物画、草花図など幅広い画題をこなし、屏風絵の大作なども多数手がけ、加越能地域に相当数の絵画作品を残した。

山本光一(1843?-1905?)やまもと・こういつ
天保14年頃江戸生まれ。山本素堂の長男。雨華庵三世の酒井鶯一の門人。雨華庵四世・酒井道一の実兄。名は信敬、徳基。号は花明園、晴々、靖々、皓々、露聲、真如葊、木石閑人などがある。新吉原江戸町に住み、明治7年に設立された起立工商会社で輸出工芸図案に携わった。明治10年第1回内国勧業博覧会の漆器図案で花紋賞碑を受賞。また、内国絵画共進会にも「光琳派」として出品した。明治13年竣工の靖国神社内燈籠の図案を担当。この燈籠は警視局より靖国神社に献納された。明治24年の起立工商会社解散後は金沢に移り住み、明治26年から明治33年まで拈華会を主宰して後進の育成につとめ、その間、明治29年頃まで金沢工業学校(現在の石川県立工業高等学校)に、明治30年から翌年まで高岡工芸学校(現在の富山県立高岡工芸高等学校)の図案絵画教師として勤務した。明治33、4年頃には粟津、小松にいたとされる。石崎光瑤の最初の師としても知られる。明治38年頃死去した。

山本素堂(不明-不明)やまもと・そどう
酒井抱一の門人。儒学者。山本光一、酒井道一の父。山本学半の弟。抱一と親しかった儒者・山本北山の二男・緑陰の子。名は信孝、字は天経、通称は卯之助、あるいは宇之助。皓々斎、対桂軒などと号した。北鶯塚村に住んでいた。父に折衷派を学び『論語抄』を著した。絵画作品はそれほど残っていないが、やまと絵や吉祥画の例がある。

石川(21)-画人伝・INDEX

文献:酒井抱一と江戸琳派の全貌、別冊太陽244「江戸琳派の美」、燦めきの日本画-石崎光瑤と京都の画家たち、新加能画人集成