江戸時代中期の京都において、桜の絵を専門に描く画家たちがいた。その始祖は、『近世畸人伝』の発案者として知られる三熊花顛(1730-1794)で、花顛は、桜の品種や銘木を細かく描き分けながらも、博物学的描写にとどまらず、叙情性をたたえた桜を表現しようとした。その描法は、妹の三熊露香、弟子の広瀬花隠、そして露香の弟子の織田瑟々へと受け継がれ、この4人の画家によって60余年続いた。後年この画派は、美術史家の今橋理子氏によって「三熊派」と名づけられた。
花顛の出生地は、加賀とも京都とも伝わっているが、『近世畸人伝』では、城西鳴瀧(現在の京都市)の産となっている。幼いころから画を好み、沈南蘋の門人・大友月湖に学んだが、麒麟や鳳凰、竜虎など見たこともないものを描いても世のためにならないと考え、目に触れるものを描いて後世に伝えようと、古来よりあまり描かれていない桜の花に目を付け、以後桜を研究し、桜画を専門に描くようになった。
『近世畸人伝』を発案した花顛だが、自身も奇人として伝わっており、自分の死後はその骨を川に流し、そのあとに桜を植えよとの遺言を残した。花顛没後、残された人々はその遺言通りに、遺骨を桜の名所・嵯峨の戸奈瀬の前の流れに沈め、使用していた筆や書画の下絵などは日野の外山に埋め、そこに一樹の桜を植え、石碑を建て墓標にしたという。
三熊花顛(1730-1794)みくま・かてん
享保15年生まれ。別号は三熊思孝、字は介(海)堂。三熊露香は妹。沈南蘋の門人・大友月湖に画を学んだ。桜画を専門に描いた。『近世畸人伝』を伴蒿蹊と企画し挿絵を描いた。続編の『続近世畸人伝』では草稿し蒿蹊に校訂を託し、妹の三熊露香が挿絵を描いた。寛政6年、65歳で死去した。
石川(09)-画人伝・INDEX
文献:桜狂の譜 江戸の桜画世界、近世畸人伝、新加能画人集成