江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

岸駒・岸岱に学んだ加賀の岸派

森西園「青緑山水図」

文化5年(1808)、金沢城二ノ丸御殿が焼失し、その復興工事が翌年から行なわれた。御殿の障壁画制作のために江戸から狩野友益とその子・墨川が金沢に下り、地元の狩野派からは八代梅田九栄佐々木泉景らが加わった。

狩野派のほかには、京都から岸派の岸駒岸岱父子や村上松堂、斎藤霞亭、松本文平、望月左近ら一門が、箔押・表具師・紙細工師らとともに下向した。

岸派の祖である岸駒は、少年時代に金沢で画を学び、31歳の時に京都に出て、その後有栖川宮家に仕えて名をなした。金沢城障壁画制作に際しては一門を従えて金沢を訪れ、岸駒はその年に京都に帰ったが、門人たちは翌年まで残り制作にあたった。地元の岸派の絵師としては、森寒峯、村東旭らが加わっている。

森寒峯(不明-不明)は、岸駒に学び金沢で活躍した絵師で、文化7年4月18日の杉戸絵配りによれば、松之間一・二之間境縁側の松之間側に「山雀」を、裏に「芭蕉」を描いている。村東旭(不明-1851)は、加賀藩の御細工者並であり、竹之間の格天井に描いている。

また、森寒峯の子・森西園(1783-1859)は、岸駒に学んだのち長崎で明画風を研究し、帰藩後は絵方細工者として藩に仕え、加賀藩主・前田斉泰をはじめ、その夫人・子女たちに絵の教授も行なった。

亀田鶴山(1768-1834)は、町年寄・銀座の両役をつとめた家柄町人で、詩を好み、京都で頼山陽に師事し、画を岸駒に学んだ。また、俳句に親しみ小春庵四世を称した。森西園に絵を学んだ加賀藩士の岸井静斎(1826-1893)は、幕末から明治にかけて活躍した。

森寒峯(不明-不明)もり・かんぽう
名は間材、字は伯居。金沢に住んでいた。岸駒に師事し、文化6年の金沢城二ノ丸御殿障壁画制作に加わり、松之御間一・二之御間境御縁側の杉戸に「山雀」を描いた。

森西園(1783-1859)もり・さいえん
天明3年金沢生まれ。森寒峯の子。加賀藩士。通称は辰之助、諱は充、字は無充、徳符。別号に見弦、同佛、醒痴、鳳洲、森瓊がある。幼いころから画を好み、岸駒に師事して「鳳洲」と号し、のちに長崎に行き明画風を研究し、方西園の画風を好み「西園」と号した。帰郷して藩侯に仕えた。安政6年、77歳で死去した。

森釣雪(不明-不明)もり・ちょうせつ
森寒峯の子。森西園の兄といわれているが、弟という説もある。通称は建之助、諱は辰元、字は子華。別号に兆雪がある。絵は西園とともに岸駒に学んだ。

村東旭(不明-1851)むら・とうきょく
名は晴俊、通称は金作。別号に素水山人、髟順軒がある。岸駒に学び、金沢で活躍した。加賀藩の御細工者並となり御用を受けた。また、藩の老臣・今枝家の儒者である金子鶴村の『鶴村日記』にたびたび登場しており、鶴村や榊原拙処、佐々木泉景、村田千里らと画会を通して親交があったことがうかがえる。嘉永4年死去した。

亀田鶴山(1768-1834)かめだ・かくざん
明和5年生まれ。金沢の家柄町人。片町で薬種商を営んでいた宮竹本家の七代伊右衛門勝延の養嗣子で、分家九右衛門金方の子。幼名は喜十郎、のちに伊右衛門。諱は勝善、または章。字は純蔵。別号に鹿心斎、田善、蘭泉などがある。寛政12年家柄町人となり、町年寄・銀座の両役をつとめた。詩を好み、野村円平や横山政孝と交流し、大窪詩佛を迎えて詩文の添削を請い、文政11年京都に出て頼山陽に師事した。また、俳句に親しみ俳号を蘭泉といい、小春庵四世を称した。画は岸駒に学んだ。天保5年、67歳で死去した。

岸井静斎(1826-1893)きしい・せいさい
文政9年生まれ。名は孝次、または孝次郎。別号に白髯居士、松柏生、領白逸士がある。藩の歩士だったが、画を好み、森西園に学んだ。のちに岸駒や池大雅の画風を慕った。明治26年、68歳で死去した。

石川(08)-画人伝・INDEX

文献:金沢市史通史編2(近世)、金沢市史資料編16(美術工芸)、新加能画人集成