江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

加賀藩に仕えた神田松永町狩野家の祖・狩野友益

狩野友益「帰去来図剡渓訪戴図」石川県立美術館蔵

狩野友益(不明-不明)は、狩野永徳の弟にあたる狩野宗巴種信の孫で、江戸に出て表絵師・神田松永町狩野家を興した。加賀藩五代藩主・前田綱紀のときに加賀藩に仕えて加賀に下ったが、あまり長くいなかったようで作品は少ない。

神田松永町狩野家を継いだ長男の狩野伯円(1642-1726)も加賀藩に仕え、江戸加賀藩の駒込邸や本郷邸に障壁画などを描いている。多くは江戸で加賀藩の御用を受けていたが、一時加賀に下って絵を描いている。

その弟で分家して表絵師・芝愛宕下狩野家を興した狩野即誉(不明-1734)も、兄・伯円とともに江戸での加賀藩の御用に携わり、兄と交代で加賀に下っていたとみられ、石川県下に多くの作品が伝わっている。

その後も神田松永町狩野家、芝愛宕下狩野家両家の絵師たちは、江戸と加賀の両方で御用を受けるとともに、加賀の狩野派を指導し、幕末に至るまで加賀藩と深い関わりを持ったとみられる。

狩野友益(不明-不明)かのう・ゆうえき
名は氏信、通称は久米之助。表絵師・神田松永町狩野家の祖。祖父は狩野永徳の弟にあたる狩野宗巴種信で、父は京都の医師・狩野宗知重次という。絵を永徳の弟である狩野休白長信に学んだとされている。江戸に出て神田松永町狩野家を興した。加賀藩五代藩主・前田綱紀のときに藩に仕え一時期加賀に下ったとされる。生没年不詳だが、江戸時代前期を中心に活躍し、70歳で死去した。

狩野伯円(1642-1726)かのう・はくえん
寛永19年生まれ。狩野友益の長男。名は方信、友信、景信。別号に意仙斎がある。父友益の興した神田松永町狩野家を継いだ。元禄4年加賀藩五代藩主・前田綱紀の命により加賀藩駒込邸中屋敷の能舞台鏡板に「松乃絵」を描いた。その後も、元禄15年の5代将軍・徳川綱吉加賀藩本郷邸御成に際して御成御殿の御拝見座敷次之間に障壁画を制作し、宝永5年には前田吉徳と徳川綱吉の養女松姫との婚儀に関して屏風一双を描いた。江戸において前田家の御用を受けたが、一時加賀に下り絵を描いている。享保11年、85歳で死去した。

狩野即誉(不明-1734)かのう・そくよ
狩野友益の第四子、伯円の弟。名は種信、宗信、豊信。分家して芝愛宕下狩野家を興し、表絵師として活躍した。元禄15年5代将軍・徳川綱吉加賀藩本郷邸御成に際して御成御殿の御拝見座敷近習之間や御小座敷杉戸に障壁画を制作し、宝永5年前田吉徳と徳川綱吉の養女松姫との婚儀に関して屏風五双を描いた。兄の伯円と交代で加賀に下ったとみられ、石川県内に多くの作品が伝わっている。享保19年死去した。

石川(05)-画人伝・INDEX