長谷川等伯(1539-1610)は、能登国七尾(現在の石川県七尾市)の能登七尾城主畠山氏の家臣・奥村家に生まれ、のちに縁戚で染物業を営む長谷川家の養子となった。雪舟系画人の等春に学んだとされる養父・宗清に画技の手ほどきを受け、当初は「信春」と号し、北陸地方を中心に日蓮宗関連の仏画や肖像画を主に制作していた。
33歳頃、両親の死を機に妻と幼い息子・久蔵を連れて上洛し、生家・奥村家の菩提寺である七尾本延寺の本山・京都本法寺に宿をとり、画業に専心したとみられる。これ以降十数年間の動向は不詳だが、狩野派の傘下で活動をしていたと考えられている。この頃の狩野派は、若き狩野永徳(1543-1590)を当主とし、時の権力者の支持を得て画壇に君臨していた。
等伯が華々しく表舞台に登場するのは天正17年(1589)のことで、すでに51歳になっていた。この頃号を「等伯」と改め、交友のあった千利休が施主として増築・寄進した大徳寺三門楼上の壁画を描き、同寺の塔頭・三玄院の方丈にも水墨画壁画を描いた。この大掛かりな画事の成功により等伯の名は高まり、一躍有名絵師の仲間入りを果たした。
さらに、豊臣秀吉が3歳で没した愛児・鶴松(棄丸)の菩提を弔うべく天正19年(1591)から文録元年(1592)にかけて京都東山に建立した祥雲寺(現在の智積院)の障壁画を、秀吉の特命により、すでに永徳を失っていた狩野派ではなく、等伯率いる長谷川派が担当した。狩野派に対抗すべく活動してきた等伯は、長い雌伏の時を経て、ついにその野望をかなえたといえる。
この頃から水墨画の領域においても新境地を開き、日本の美術史上最高峰の水墨画と評される国宝「松林図屏風」(掲載作品)など、多くの名作を残した。慶長15年には徳川家康の要請により二男の宗宅を伴って江戸に下ったが、江戸到着間もなく72歳で病死した。
長谷川等伯(1539-1610)はせがわ・とうはく
天文8年能登国七尾(現在の石川県七尾市)生まれ。長谷川派の祖。名は又四郎、帯刀と称した。当初は「信春」の号で絵仏師として活躍し、33歳頃から京都に拠点を移し、幅広い画業を身に付けて金碧画や水墨画など多くの作品を手がけた。50歳頃から「等伯」と改号し長谷川派一門を率いて活躍、狩野永徳や海北友松らと並び桃山時代を代表する画家となった。61歳頃から最晩年まで自作に「雪舟五代」と記すなど、雪舟の後継者であることを表明した。慶長9年法橋、翌年法眼となった。慶長15年、72歳で死去した。
石川(01)-画人伝・INDEX
文献: 没後400年 長谷川等伯、開館三十五周年記念長谷川等伯 国宝松林図屏風展、等伯をめぐる画家たち、新加能画人集成