飛田周山(1877-1945)は、茨城県多賀郡大塚村(現在の北茨城市磯原町)に生まれ、16歳で上京、叔父である彫金家の海野美盛の書生となった。19歳の時に美盛の勧めもあり、当時東京に住んでいた京都の日本画家・久保田米僊の門下生となったが、翌年米僊が石川県工業学校の絵画教授として赴任したため、改めて京都の竹内栖鳳に師事した。
しかし、3年後父の意向により栖鳳のもとを離れ東京に転居し、日本美術院研究所に入って橋本雅邦に学んだ。一方で明治36年に岡倉天心を五浦に案内し、別荘購入に尽力した。これを機に、天心は3年後に日本美術院第1部(日本画部)の五浦移転を決行、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山が移住して日本美術院の五浦時代が幕を開けることになった。
周山は、四人の姿を間近に見ながら絵画研究に励み、のちに院展から文展、帝展に出品し特選を得て、帝展審査員もつとめた。中央画壇だけでなく、茨城美術展で顧問をつとめるなど、茨城県の日本画壇でも指導的立場にたって活躍した。
飛田周山(1877-1945)ひだ・しゅうざん
明治10年茨城県北茨城市磯原生まれ。本名は正雄。16歳で上京し、明治26年叔父の彫金家・海野美盛の書生となった。明治29年久保田米僊に、翌年から竹内栖鳳に師事した。明治33年から日本美術院研究所に学び、橋本雅邦に師事した。同年第9回日本絵画協会第4回日本美術院連合絵画共進会で初入選。翌年第11回連合絵画共進会で銅牌。明治35年寺崎広業門下による美術研精会評議員。翌年岡倉天心を茨城県五浦に案内した。大正元年第6回文展、大正4年年第9回文展で褒状。大正6年第11回文展、大正8年第1回帝展で特選。大正11年平和記念東京博覧会で1等金牌。翌年から始まった茨城美術展で顧問をつとめた。昭和13年の文展系中堅作家による日本画院創設に同人として参加。昭和20年疎開先の郷里において、67歳で死去した。
茨城(24)-画人伝・INDEX
文献:茨城県近代美術館所蔵作品図録2、茨城県近代美術館所蔵作品図録 1997、茨城の古書画人名事典、茨城の画人、茨城の美術史、飛田周山-五浦で学んだ画家たち-