水戸の三画人と呼ばれる林十江、立原杏所、萩谷セン喬の3人が、そろって影響を受けたとされるのが、伊勢の画僧・月僊(1741-1809)である。月僊は名古屋に生まれ、十代で江戸の増上寺に入り、修行のかたわら雪舟復興を掲げていた水戸出身の桜井雪館に画を学んだ。その後、京都の知恩院に移り、京都では円山応挙に師事し、与謝蕪村に私淑したとされる。
当時の画壇は、幕府の御用絵師をつとめていた狩野派の画風が批判され、室町時代以前の古い伝統を見直したり、長崎を通じて伝わってきた中国絵画の様式を取り入れるなど、新しい表現が模索されていた時期で、そのような環境のなか、月僊は個性的な画風を確立していったと思われる。
安永3年、34歳で伊勢寂照寺の住職となった月僊は、お伊勢参りに訪れた参拝客と交流して画名を高め、入手した画料は荒廃していた伽藍の再興や参道の整備、貧民救済などに使い、勧進のため全国を行脚したと伝わっている。
月僊が水戸を訪れた年を記載する資料がなく、正確ではないが、寛政元年には現在の福島県須賀川に亜欧堂田善を訪ねており、そこから棚倉街道などを経て常陸太田に入ったと推測されている。月僊は常陸太田周辺で制作活動を行なっていた際に、水戸の画人たちに影響を与えたと考えられている。
参考:尾張の画僧・月僊と伊勢の門人
参考:名古屋四条派の祖・野村玉渓
月僊(1741-1809)げっせん
元文6年尾張国名古屋生まれ。伊勢山田の寂照寺の住職。名は玄瑞、字は祥誉。7歳で得度し、10代で江戸の芝増上寺に入寺し、修行のかたわら桜井雪館に師事した。その後、京都の知恩院に移り、円山応挙に師事し、与謝蕪村に私淑したと伝わっている。34歳の時に当時荒廃していた伊勢の寂照寺の再興のため住職となり、勧進のため全国を行脚したという。著書に『列仙画賛』『耕織図』『月僊画譜』がある。文化6年、69歳で死去した。
茨城(13)-画人伝・INDEX
文献:画僧月僊 特別展、 近世水戸の画人 奇才・十江と粋人・セン喬