林十江(1777-1813)は、水戸城東の下市に酒造業を営む町人の子として生まれ、隣家で醤油醸造を営む伯父の家に養子に出た。絵を誰に学んだかは、はっきりしないが、すでに子どもの頃から画才を発揮し、12、3歳のころから出入りしていた水戸の漢学者・立原翠軒の家では、翠軒の子・杏所に画技を教えていたという。21歳の時に養父が没したため家業を継いだが、人の意表をつくことばかりを考えていて利益をあてにせず、家産を傾けたという。
十江は、奇抜な構図と着想で、とんぼや天狗といった異色のテーマを奔放な筆致で描いたが、あまりにも特異だったためか、当時の人々に理解されることはなく、絵馬などを描いて生活をしていた。文化10年、絵で身を立てるべく、病をおして江戸に出て谷文晁に認められたが、症状が悪化してまもなく帰郷、そのまま37歳の生涯を閉じた。
短い江戸での活動だったが、谷文晁に認められ、文晁が頼まれた吉原の茶屋の金屏風を十江が描いたことがある。十江は「墨梅の図」を描いたが、それを見た茶屋の主人は理解できず、喜ばなかった。しかし、谷文晁が非常に関心していたので、主人はやっと十江の絵に納得したという逸話も残っている。
林十江(1777-1813)はやし・じっこう
安永6年水戸生まれ。七丁目の酒造業「升屋」高野惣兵衛之茂の長男。のちに水戸裡七丁目の林家の養子になった。名は長羽、字は子翼、雲夫、通称は長次郎。別号に印禅居士、市中庵、水城侠客、花中逸人、風狂野郎、金眼鳥、君莫笑などがある。幼いころから書画をよくし、立原翠軒の家に出入りし、模写などで画を学んだと思われるが、誰も認めてくれず、絵馬などを描いて生活をしていた。文化10年に江戸に出て谷文晁に認められるが、半年で病気になり帰郷し、同年、37歳で死去した。
茨城(10)-画人伝・INDEX
文献:茨城の画人、茨城県立歴史館報(12)、近世水戸の画人 奇才・十江と粋人・セン喬