江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

国内外を旅し戦争画でも名作を残した小早川秋声

小早川秋声「國の楯」

小早川秋声(1885-1974)は、鳥取県日野郡日野町にある光徳寺の長男として生まれ、母親の里である神戸の九鬼子爵邸内で育ち、9歳で東本願寺の衆徒として僧籍に入った。幼いころから画を好み、中学在学中から博物館等に通い模写などをしていたという。

中学卒業後は、京都の谷口香嶠に入門し、明治42年に京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)が開校すると、師の香嶠が同校の教授になったこともあり、秋声も一旦は入学したが、まもなく退学して東洋美術を研究するため中国に渡り、その後もたびたび中国を訪れた。

大正4年の香嶠没後は山元春挙に師事したが、写生旅行を盛んにする春挙の影響もあってか、秋声の旅への意欲もますます旺盛となり、大正9年からは西洋美術を学ぶために中国、インドを経て欧州など17カ国を巡り、大正15年には日本美術の紹介のため米国に渡り、日本画についての講演や展覧会を行なった。

師の春挙と同様に官展系画家として活動していた秋声は、帝展で特選をとることを期待されていたが、やがて時代は戦争へと向かい、昭和6年の満州事変勃発以降は従軍画家としてたびたび戦地に派遣され、戦争画を多く描くようになった。

掲載の「國の楯」は、太平洋戦争末期の昭和19年に描かれたもので、天覧に供するために陸軍省の依頼で制作されたと伝わっているが、結局、軍に受け取りを拒否され、長く秘匿されていた。戦後になって秋声自身の手で改作され、現在では代表作として広く知られている。

戦後まもなく日展の審査員もしたが、体調を崩したこともあり、大規模な展覧会への出品はほとんどなくなり、その後は仏画や干支をテーマにした小品などを多く描き、昭和49年、京都において老衰のため88歳で死去した。

小早川秋声(1885-1974)こばやかわ・しゅうせい
明治18年鳥取県日野郡日野町生まれ。本名は盈麿。はじめ谷口香嶠に学び、ついで山元春挙に師事した。明治42年に開校した京都市立絵画専門学校に入学したがやがて退学。大正3年から6年まで中国で、さらに大正9年から12年までヨーロッパで研鑽を積んだ。大正3年第8回文展で初入選し、官展系画家として活躍した。昭和に入ってしばしば従軍画家として陸軍省より各地に派遣された。兵庫県画壇との関わりでは、大正期の神戸での展覧会にその名がみられるのみである。昭和49年、88歳で死去した。

兵庫(29)-画人伝・INDEX

文献:兵庫の美術家県内日本画壇回顧展、小早川秋声戦争の記憶