江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

抱一没後に江戸琳派様式の拡大に貢献した鈴木其一

鈴木其一「夏秋渓流図屏風」根津美術館蔵

酒井抱一の最初期の弟子である鈴木蠣潭(1792-1817)は、酒井家家臣として抱一の付人をつとめ、抱一の身の回りの世話をしながら画業も手伝っていた。26歳で急逝したため残っている作品は少ないが、優れた画才を発揮して抱一の画業を支え、時には代作も依頼されていたことが知られている。

蠣潭の急逝後、鈴木家を存続させるために弟弟子の鈴木其一(1796-1858)が蠣潭の姉と結婚して鈴木家を継いだ。其一は、蠣潭同様に酒井家家臣として抱一を補佐しながら早くから画才を発揮し、門弟筆頭の実力者として抱一を支え、初期作品には師弟の合作も多い。抱一没後は実質的な抱一の後継者として多くの弟子を養成し、江戸琳派様式の拡大に貢献した。

其一の画風は、はじめ抱一の画風を継承するものだったが、抱一没後の30代半ばから40代半ばにかけては「噲々」と号し、師風を脱して大胆で明快な作風に転じ、他の江戸琳派の画家たちと一線を画した。さらに晩年になると「菁々其一」と称し、家督を長男の守一に譲り、より自由な立場で時に近代を先取りするような作品を数多く描いた。

20歳で鈴木家の家督を継いだ長男の鈴木守一(1823-1889)は、其一派ともいうべき一派の後継者として明治以降における江戸琳派の命脈をつないだ。二男の鈴木誠一(1835-1882)も画を描き、起立工商会社で細密な図案を多く手掛けている。また、其一には4人の娘がいたが、二女の阿清は河鍋暁斎に嫁いだ。

鈴木其一(1796-1858)すずき・きいつ
寛政8年江戸中橋生まれ。酒井抱一の実質的な後継者。名は元長、字は子淵、通称は為三郎。別号に鸎巣、必庵(菴)、噲々、菁々、元阿、鋤雲、庭柏子、為三堂、祝琳斎などがある。幼少より画を好み、文化10年、18歳の時に酒井抱一の内弟子となった。抱一の付人だった兄弟子・鈴木蠣潭の没後、鈴木家を存続させるために蠣潭の姉と結婚して酒井家家臣となり、門弟筆頭の実力者として抱一の信頼を得た。抱一在世中は、雨華庵の西隣に住み、その後は雨華庵に近い下谷金杉石川屋敷に住み、最晩年には再び雨華庵近くに隠棲した。安政5年、64歳で死去した。

鈴木蠣潭(1792-1817)すずき・れいたん
天明2年生まれ。酒井抱一の最初期の門人。播磨姫路藩士。名は規民。通称は藤兵衛、藤之進。文化6年姫路藩主・酒井忠以(宗雅)の弟・酒井抱一の付人となった。抱一に画を学び、人物草花を得意とした。早世したため作品は少ないが、抱一の有能な助手だったことが知られている。文化14年、26歳で死去した。

鈴木守一(1823-1889)すずき・しゅいつ
文政6年江戸生まれ。鈴木其一の長男。名は元重、字は子英、通称は重三郎。別号に静々、露青、庭柏子などがある。父・其一に画を学び、その模作を数多く残し、20歳の時に其一の跡を継いだ。幕末から明治初期において、抱一の孫世代のなかでも特に江戸琳派様式をよく伝えている。明治6年ウィーン万国博覧会に出品した。明治22年、66歳で死去した。

鈴木誠一(1835-1882)すずき・せいいち
天保6年江戸生まれ。鈴木其一の二男。名は元規。其一が40歳の時の子で、その数年以内には其一は家督を守一に譲ったと思われ、最晩年の其一一門の状況でどのように学んだかは定かではない。明治7年設立の起立工商会社では、細密な筆致の図案を多く残し、製品化されたものには蒔絵など漆工関係のものが多い。明治15年、47歳で死去した。

兵庫(12)-画人伝・INDEX

文献:酒井抱一と江戸琳派の全貌、江戸琳派 花鳥風月をめでる