江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

風雅を好んだ姫路藩主・酒井宗雅

左:酒井宗雅「兎図」兵庫県立歴史博物館蔵、右:酒井宗雅「石楠花に山鳩図」

酒井宗雅(1755-1790)は、名を忠以といい、姫路藩主酒井忠恭の嫡子・酒井忠仰の長男として姫路藩の江戸藩邸に生まれた。酒井抱一の兄にあたる。父の忠仰が早世したため、祖父の忠恭の養子となり、明和9年姫路藩主を継いだ。

酒井家は代々文武両道を旨とし、特に絵画には造詣が深く、忠以も茶道や能、俳諧のほか多様な文芸に長じ、絵画制作も得意とした。画作の号はもっていなかったとみられ、「宗雅」は茶人としての号と思われる。

画技は、はじめ中橋狩野家12代の狩野永徳高信に学び、さらにさまざまな様式の絵画に興味を持ち、特に南蘋派の画風に関心が高かったようで、江戸藩邸に宋紫石・紫岡父子を招いている。南蘋様式は、当時大名たちの間で流行しており、伊勢長島藩主・増山雪斎や白河藩主・松平定信らも本格的に学んでいる。

宗雅は、銀鵝の俳号を持つ俳人でもあり、江戸座の馬場存義や二世祇徳に手ほどきを受けた。宗雅邸の茶会には、諸大名だけでなく画の師である狩野永徳高信をはじめ、書家の沢田東江や蘭学者の桂川甫周らも招かれており、風雅を好んだ宗雅の幅広い交流がうかがえる。

酒井宗雅(1755-1790)さかい・そうが
宝暦4年江戸生まれ。名は忠以。酒井忠仰の長男。酒井抱一の兄。祖父酒井忠恭の養子となり、明和9年播州姫路藩主を継いだ。号は宗雅、銀鵝など。武芸にすぐれ、俳句や書画にも長じていた。官名は代々雅楽頭を称した。宗雅は茶人としての号と思われる。別号に一得庵、逾好庵、払袖などがある。大名茶人として著名な松江城主・松平治郷(号は不昧)を師と仰ぎ、お互いを大天狗、小天狗を呼びあったという。俳諧は馬場存義に学び、俳号を銀鵝といい『酒井銀鵝公俳句集』などの句集も残っている。寛政2年、36歳で死去した。

兵庫(10)-画人伝・INDEX

文献:神戸・淡路・鳴門 近世の画家たち、酒井抱一と江戸琳派の全貌