外内松意(不明-1815)は、播州龍野(現在の兵庫県たつの市の一部)の狩野派で、脇坂家お抱え絵師をつとめた外内家の初代である。藩に絵の修業を命じられ、江戸で長府藩御用絵師の二代笹山養意に師事した。
松意の長男・清八(松泉)は、藩の勘定方をつとめたが、寛政元年に出奔し、二男の松舃(茂光、松慶とも)も、木挽町狩野家の養川院惟信に師事し、御流格、御盃並格と進んだが、享和3年に兄同様出奔してしまった。
長男、二男が相次いで出奔したため、三男の外内探盛守孝(不明-1846)がお抱え絵師の職を継いだ。探盛は、鍛冶橋狩野家の探信守道に師事したと思われるが、系図にはそのことは触れられていない。
龍野藩には外内家以前にも御用絵師がいた可能性はあるが、現在のところまだわかっていない。
外内松意(不明-1815)
生年不明。龍野藩脇坂家お抱え絵師。名は茂博、少字溝之助、のち久悦。春和斎と号した。父は清右衛門(寿昌)といい、龍野藩の勘定方をつとめた。宝暦3年小坊主として召し出され、宝暦8年、絵の修業を命じられ笹山養意常博に師事した。明和4年御流格に叙され、絵師に任命された。安永7年御盃並格に進み、寛政7年坊主頭を兼ねた。寛政10年坊主頭を免ぜられたが、文化9年再び坊主頭を兼ね、翌10年には致仕して隠居し、文化12年死去した。
外内探盛(不明-1846)
生年不明。龍野藩脇坂家お抱え絵師。外内松意の三男。名は守孝。幼字は久三郎。松隣とも号した。文化5年絵師をもって召し出された。文化7年御流格、文化11年御盃並格、文政2年御正格、文政12年坊主頭をして兼ね、近習目付助を免ぜられた。弘化3年死去した。
兵庫(06)-画人伝・INDEX
文献:豪農に伝来する絵画