白川芝山(1758-1850)は、淡路国三原郡金屋村(現在の洲本市金屋)の代々酒造業を営む裕福な家に生まれた。はじめ書を学び、唐代の張旭を手本とした。画の師は不明だが、残された作品からすると、画題によって諸派の作風を使いわけていたと思われる。
天明2年、24歳の時に京都に上り、この時に白川宮主催の席画会で称賛され、白川姓を許され白川芝山と号した。
文化初年、江戸に出て麻布飯倉に書画の塾を開き、多くの弟子をとり、出版活動も盛んにおこなった。渡辺崋山が芝山の塾に入るのはこの時期で、その後授業料滞納により崋山を破門することになるのだが、皮肉なことにそのことにより「崋山を破門した師」として芝山の名は広く知れ渡ることとなる。
ほかに淡路ゆかりの近世画人としては、黒田泊庵、黙庵をはじめ、倉淵玉鳳、今宮太室、正井石谷、忍頂寺梅谷、石溪、正井如石、藪長水、菅小琴、賀集松塢、小石石林らがいる。
白川芝山(1759?-1850)しらかわ・しざん
宝暦9年頃淡路国三原郡金屋村(現在の洲本市金屋)生まれ。通称は賀集芳介。名は景皓。別号に四海庵、大観堂、東外史などがある。生家は代々酒造業を営んでいた。はじめ唐代の張旭を手本として書を学んだ。画の師は不明だが、多くの作品を残している。俳句にも堪能で玉蕉庵と号し、俳画も残している。嘉永3年、92歳で死去した。
倉淵玉鳳(1780-1863)くらぶち・ぎょくほう
安永9年淡路国三原郡中島村(現在の南あわじ市)生まれ。名は由信、通称は龍左衛門。初号は玉峰。別号に淵龍、蛙堂、淵庚子などがある。俳号は年々。16歳の時に大坂で岡田玉山に師事し、玉山没後は上田公長に師事した。寛政10年帰郷して父祖の染物業を継ぎ、天保2年には酒造業をはじめ、事業家としても成功した。大作を得意とし、嘉永2年法橋に叙された。晩年には俳諧をよくした。文久3年、84歳で死去した。
今宮太室(1788?-1847)いまみや・たいしつ
天明8年頃淡路国三原郡鮎屋村(現在の洲本市鮎屋)生まれ。庄屋不動氏(奥野氏ともいわれる)の出身と伝えられているが、詳細は不明。名は鮮、字は明郷。大坂の今宮で活動したので、今宮太室と号したが、高津町にも居住したと思われる。弘化4年、60歳で死去した。
正井石谷(1789-1854)まさい・せっこく
寛政元年淡路国津名郡仮屋浦(現在の淡路市)生まれ。生家は代々大津屋と称して酒造業を営んでいた。幼名は豊吉、のちに弥右衛門と改めた。諱は宣方、別号に菅龍、俳号に弓の屋員彦、海辺黒人などがある。狂歌、茶の湯、華道、謡曲などをよくし、画は和歌山の野呂介石に学んだ。貫名海屋、中林竹洞、篠崎小竹、斎藤畸庵ら多くの文人墨客と交友した。安政元年、65歳で死去した。
忍頂寺梅谷(1804-1877)にんちょうじ・ばいこく
文化元年淡路国生まれ。名は温、字は知新。大坂堂島に住んだ。幼いころから画を好み、はじめ京都の小田海僊に学んだ。大坂の上田公長にも学び、公長の勧めで田能村竹田にも師事し、貫名海屋の指導も受けた。山水、花鳥を得意とした。森琴石ら多くの門人を育てた。明治10年、73歳で死去した。
石溪(不明-不明)せっけい
宝樹寺九世住職を10数年間つとめた。その後宝樹寺は明法寺と合併して明法寺となった。僧名は龍遍、僧階は権大僧都。住職を次の恵保に譲ってからは風流を嗜み、師系は不明だが画道に没頭したという。
正井如石(1813-1875)まさい・じょせき
文化10年淡路国生まれ。正井石谷の長子。名は正倫、字は見幾、通称は弥右エ門(弥栄文)。初号は鴎浪。幼いころから書画をよくし、仮屋事代主神社の石の大鳥居の文字は如石が13歳の時の作とされる。画は父に従って少年時代に野呂介石に学び、その後明石の梁田葦洲に師事した。その後は師につかず、広く書を読み万事に通暁した。明治8年、62歳で死去した。
藪長水(1814-1867)やぶ・ちょうすい
文化11年大坂生まれ。儒学者・藪鶴堂の長子。名は良、字は大造。別号に蝶睡、朝翠がある。岡熊嶽に学び熊巒と号したが、師の没後長水と改めた。山水、花鳥、人物画を得意とした。特に緒方洪庵の肖像画が知られている。父の鶴堂が三原郡福良浦(現在の南あわじ市)の出身であることから、淡路の人々とも深い交流があり、長水の作品も淡路で散見される。慶応3年、54歳で死去した。
菅小琴(1816?-1889)すが・しょうきん
文化13年頃淡路国三原郡湊浦(現在の南あわじ市湊)生まれ。本名は庄太郎、別号に菅新、乃僊史、楳門散人、売魚翁がある。父の菅松坡も画家だったが、松坡の作品は残っていない。はじめの師は父だと思われるが、19歳の時に淡路焼を創業した賀集珉平のもとで絵付師としての修業をはじめ、その後明治16年に師珉平が没するまで約50年間継続した。明治22年、73歳で死去した。
賀集松塢(1817-1857)かしゅう・しょうう
文化14年淡路国三原郡鍛冶屋村(現在の南あわじ市賀集)生まれ。庄屋役をつとめた賀集氏の第11代賀集勝平盛茂の三男。幼名は義之助、のちに勝平、盛孝と称した。初号は城山。17歳の時に京都の松村景文に師事し4年後に帰郷した。その後は庄屋職のかたわら余技として画を描いた。明治20年、40歳で死去した。
小石石林(1824-1886)こいし・せきりん
文政7年淡路国三原郡流川原村(現在の南あわじ市)生まれ。小石磯次郎の長男。名は窻、字は卿外、孚一と称し、竪凹とも号した。石林は石麟、石琳と表記することもある。大坂の両国町また錦町に居住していた。『浪華名流記』によると中林竹洞に学び、のちに諸国を漫遊して長崎に至り、清人の陳逸舟に画法を学んだとある。明治19年、62歳で死去した。
兵庫(04)-画人伝・INDEX
文献:近世淡路島の画家たち、神戸・淡路・鳴門 近世の画家たち