スタートが遅れていた北海道美術だが、道民の間でも徐々に美術に対する興味と関心が大きくなり、創作面においても、技術の向上を目指して各地で小さな美術グループが結成されるようになった。主なものとしては、小樽の「小樽洋画研究所」、旭川の「ヌタックカムシュッペ画会」、函館の「赤光社」、札幌の「黒百合会」、「エルム画会」「北斗雅会」「白揚画会」などがある。やがて、それらの美術グループ間での交流と結集の気運がたかまり、大正14年、初めての全道的規模の公募団体である「北海道美術協会」(道展)が創立されることとなった。これ以降、昭和初期における北海道の美術活動は道展を中心に展開していくことになる。
道展の創立会員は、日本画は、菅原翠洲、山内弥一郎、岩田華谷、白青山、岡崎南田、平沼深雪、洋画は、林竹治郎、能勢真美、本間紹夫、山田正、山本菊造、奈良岡昴、加藤悦郎、今田敬一、石野宣三、沢枝重雄、升家謙三、石川確、中根孝治、三浦鮮治、谷吉二郎、中村善策、兼平英示、枡田誠一、近岡外次郎、池谷寅一、黒田三洋、天間正五郎、内山麗人、高橋北修、坂野孝児の計31名だった。第1回展は札幌の中島公園にあった農業館で開催され、全道からの一般公募を含め212点が展覧され、大きな反響を呼んだ。
創立メンバーの一人・今田敬一は当時の道展について「初期道展に、そろいの赤いハッピがあった。赤といっても派手なエンジで、背中にはっきり道展と白く染めぬいていた。(中略)これを着ると、道展の感じが身に沁みたそうで、道展という協同体の結束にとてもプラスした。ハッピのエンジが、中島公園の緑と水に映えて美しかった」(昭和40年・北海道新聞)と回想している。
道展には戦前までに水彩の繁野三郎、日本画の高木黄史、本間莞彩、洋画の菊地精二、居串佳一、山田義夫、岡部文之助、小山昇、彫刻の本郷新ら、北海道の美術界を担う数多くの作家が出品し、また、道展を母体として中央展への出品も相次ぐようになった。
山内弥一郎(1885-1954)
明治18年札幌生まれ。上京して太平洋画会研究所に学び、その後日本画に転向、新興日本画展、中央美術展などに入選した。道展日本画部の創立にも参加、大正15年に札幌女子画学院を創立して、美術振興にも力を注いだ。戦後は北海道日本画協会の創立にも参画した。昭和29年、69歳で死去した。
北海道(24)-画人伝・INDEX
文献:道展・全道展・新道展 創造への軌跡、北海道美術の青春期、美術北海道100年展、北海道の美術100年、北海道美術史