「生れ出づる悩み」「或る女」などで知られる小説家・有島武郎(1878-1923)も、黎明期における北海道美術の発展に貢献したひとりである。東京に生まれた有島は、学習院中等科卒業後に農学者を志して札幌農学校に進学、アメリカ留学を経て、明治40年に母校が前身である東北帝国大学農科大学(現北大)の英語教師として札幌に赴任した。その翌年には同校内に結成された絵画グループ「黒百合会」の指導者となり、有島自身も印象派風の油彩画を描き、同展に出品した。
有島は、この「黒百合会」の活動方針に、同人だった文芸雑誌「白樺」の美術運動を取り入れた。年に1度行なわれていた黒百合会の展覧会には、参考作品として岸田劉生、弟の有島生馬らの絵画や、後期印象派の複製画、ロダンの彫刻なども展示し、中央での盛んな美術活動を伝えるとともに、西洋美術の新思潮を積極的に紹介した。この有島の美術啓蒙活動は学生にとどまらず、一般市民を含めて大きな影響を与え、幅広い美術愛好家を生んだばかりでなく、その後の本格的な芸術運動の基盤を形成したといえる。
大正3年、安子夫人の病気療養のため大学教授の職を辞して鎌倉に移り住んだが、大正5年に夫人と父親の武を相次いで亡くし、有島は小説家として出発することを決意する。39歳の遅いデビューだったが、大正6年「カインの末裔」、大正7年「生れ出づる悩み」、大正8年「或る女」と矢継早に発表、文壇の地位を確かなものとした。しかし、大正12年、当時「婦人公論」記者で既婚者だった波多野秋子と心中をはかり、45歳で死去。わずか6年の短い作家生活だった。
有島武郎(1878-1923)
明治11年東京生まれ。明治29年学習院中等科卒業、同年札幌農学校予科5年に編入学した。明治34年同校本科農業経済科を卒業。明治36年アメリカに渡りハヴァフォード大学大学院に入学、明治37年にハーバード大学大学院に入学した。明治39年3年間のアメリカ留学を終え、欧州旅行を経て翌年帰国。同年東北帝国大学農科大学(現北大)の英語講師となり、翌年学内の美術団体「黒百合会」を結成、同年同大学予科教授となった。明治43年学習院の3つの回覧雑誌が合流し、同人雑誌「白樺」が創刊され、同人となった。大正5年から執筆活動を本格化し、「カインの末裔」「生れ出づる悩み」「或る女」などを発表。大正12年、波多野秋子との心中により45歳で死去した。
北海道(22)-画人伝・INDEX
文献:有島三兄弟それぞれの青春、北海道の美術100年、北海道美術史