アイヌ絵を描いた絵師としては、10人ほどが確認されているが、そのなかでも作品の数と質の高さから、新興の港町・箱館(現在の函館)で活躍した平沢屏山が、アイヌ絵の代表的作家と位置付けられている。欧米の研究者がアイヌやその文化に強い関心を示すようになった幕末から明治にかけて、箱館を訪れた外国人のほとんどが、屏山のアイヌ絵を求めたといわれており、海外コレクションも多数確認されている。
平沢屏山は、生まれ故郷の岩手県稗貫郡大迫町で絵師をしていたが、生計がたたず、弘化年間頃、22歳から25歳の時に弟とともに箱館に移住し、船乗りを相手に絵馬屋を始めたという。大迫に住んでいた時は、早池峰山信仰が盛んだった同地で、注文を受けてさまざまな祈願内容の絵馬を制作していたとみられることから、それが箱館時代へと継承されたと思われる。
その後、箱館を本拠とする商人・杉浦嘉七の知遇を得て、その請負場所である日高・十勝地方を訪れて、そこで生活しつつ接したアイヌの人々の風俗を描いたとされる。磊落な性格で、酒を好み、子ども好きという人柄が伝わっている。気ままな制作態度で、注文を受けてもなかなか筆をとらないことが多かったようである。
平沢屏山(1822-1876)
文政5年岩手県稗貫郡大迫町生まれ。代表的なアイヌ絵作家のひとり。名は国太郎、または助作。画系などは不明だが、アイヌ絵の背景の山水描写には、谷文晁系の諸派折衷的な表現が認められる。代表作に「蝦夷風俗十二ケ月屏風」などがある。弟子と思われる絵師に木村巴江がいる。明治9年、54歳で死去した。
北海道(7)-画人伝・INDEX
文献:十勝アイヌと絵師・平沢屏山-アイヌの四季と生活、描かれた北海道、蝦夷風俗画展、「アイヌ風俗画」の研究-近世北海道におけるアイヌと美術、描かれた近世アイヌの風俗、アイヌ絵、北海道美術史