山形城下の旅籠町に生まれた早坂文嶺(1797-1867)は、弘化年間(1844-1848)頃に松前に渡り、松前で絵師として活動した。一説には松前藩の御用絵師とも伝えられているが、定かではない。アイヌ絵の作者として紹介されることが多いが、もっともよく描いているのは仏画で、そのほかにも風景画や武者絵などが残っている。その中には、絵馬として奉納されているものもある。
アイヌ絵の落款に主としてみられる「二司馬」の号は、「人格者で財力もそなえ、地位や身分の高い人物」を意味するアイヌ語「ニシパ」に漢字をあてたものである。掲載の「アイヌ図(神仙図)」は、細部を省いた軽妙な筆致で、細長い植物の茎をストローのようにして水を飲むアイヌの姿が描かれており、これは他には例のない題材である。
早坂文嶺(1797-1867)
寛政9年山形城下旅籠町生まれ。号は二司馬。家業は表具屋。父親は表具屋のかたわら、義川斎定信などと号した絵師で、山形市内に多くの作品が残っている。蝦夷地に住むようになった時期は弘化年間で、以後アイヌ絵など少なくとも30点以上の作品を制作しており、松前町教育委員会、市立函館図書館、市立函館博物館などに収蔵されている。慶応3年、71歳で死去した。
北海道(6)-画人伝・INDEX
文献:描かれた北海道、蝦夷風俗画展、アイヌ絵とその周辺、「アイヌ風俗画」の研究-近世北海道におけるアイヌと美術、アイヌ絵