江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

広島四条派の系譜、明治・大正期に広島画壇を牽引した里見雲嶺

里見雲嶺 左:足柄山之月山姥之図、右:紀貫之蟻通杜之図

江戸後期の山田雪塘から始まる広島の四条派は、雪塘の門人である山県二承、さらに二承の門人・里見雲嶺(1849-1928)と続き、雲嶺は明治・大正期における広島画壇の中心的な画家として活躍した。雲嶺の画法は四条派の正統ともいうべきもので、伝統的な画法による山水画や人物画を得意とした。雲嶺の没後は、旅をしながら画の修行を続け、36歳で京都に出て川端玉章に師事した田中頼璋(1868-1940)が広島画壇で中心的役割を果たした。昭和に入ると、竹内栖鳳に師事した金島桂華(1892-1974)、土田麦僊に学んだ猪原大華(1897-1980)らが文展・帝展・日展などで活躍、日本芸術院賞を受賞した。

里見雲嶺(1849-1928)さとみ・うんれい
嘉永2年広島白島町生まれ。名は熊次郎。はじめ中井泰嶺や山県二承に学び、のちに京都に出て四条派の西山芳園に師事した。四条派の伝統的な画法による山水・人物画をよくし、明治23年、第3回内国勧業博覧会に出品して褒賞を受けた。明治27年には明治天皇大婚25年祝典に際し「旭日遊亀図」を献納した。大正5年に始まった初期県美展で活躍し、広島の日本画界で指導的役割を果たした。昭和3年、80歳で死去した。

田中頼璋(1868-1940)たなか・らいしょう
慶応2年石見邑智郡市木村生まれ。名は大治郎。生家は代々本陣をつとめる庄屋。17歳のころ萩へ出て森寛斎の薫陶を受けた。その後は旅絵師として活動した。明治35年、36歳で京都に出て川端玉章に師事した。関東大震災以後は広島に移住し、広島県美術展覧会に出品を続けるなど、晩年にいたるまで精力的に制作を続けた。門人に橋本明治、丸木位里がいる。昭和15年、74歳で死去した。

熊谷直彦(1828-1913)くまがい・なおひこ
文政11年広島生まれ。別号に篤雅がある。幼いころに四条派の岡本茂彦に入門した。のちに諸国を漫遊し、明治37年帝室技芸員になった。大正2年、84歳で死去した。

内畠暁園(1874-1917)うちはた・ぎょうえん
明治7年賀茂郡内海生まれ。通称は穫造。幼いころから画を好み、京都に出て竹内栖鳳に師事した。病弱で一時広島に帰り活動していたが、大正6年、43歳で死去した。

大村廣陽(1891-1983)おおむら・こうよう
明治24年沼隈郡東村生まれ。名は種五郎。明治44年京都市立美術工芸学校を卒業、同年文展に初入選した。大正3年同校を卒業し、竹内栖鳳の画塾・竹杖会に入った。以後、文展・帝展・日展に出品した。昭和58年、91歳で死去した。

金島桂華「蓮池」華鴒大塚美術館蔵

金島桂華(1892-1974)かなしま・けいか
明治25年深安郡神辺町生まれ。名は政太。大阪で西家桂州に学び、桂華の号を得た。明治40年平井直水に師事、明治44年に竹内栖鳳の画塾・竹杖会に入った。大正7年文展に初入選。以後文展・帝展・日展に出品した。昭和28年芸術選奨文部大臣賞、昭和29年日本芸術院賞を受賞、昭和34年日本芸術院会員、昭和44年日展顧問となった。昭和49年、82歳で死去した。

福田恵一(1895-1956)ふくだ・けいいち
明治28年福山市神島町生まれ。大正6年に東京美術学校を卒業し、大阪に住んだ。大正12年に京都の西山翠嶂に師事し、画塾・青甲社に入った。翌年帝展に初入選、以後帝展・日展を舞台に活躍した。昭和31年、61歳で死去した。

猪原大華「月」広島県立美術館蔵

猪原大華(1897-1980)いのはら・たいか
明治30年深安郡神辺町生まれ。名は寿。叔父をたよって大阪に出て、同郷の金島桂華の知遇を得る。大正7年京都市立絵画専門学校に入学、大正10年帝展に初入選した。大正12年に京都市立絵画専門学校本科を卒業、同研究科に進み、土田麦僊に師事。昭和12年西村五雲の塾・晨鳥社に入った。以後、文展・日展を舞台に活躍、昭和43年日展評議員となった。昭和46年日展で内閣総理大臣賞、昭和49年日本芸術院賞恩賜賞を受賞した。昭和55年、82歳で死去した。

広島(13)画人伝・INDEX

文献:近代・広島画人伝、広島日本画の系譜