江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

菅茶山と頼山陽

江戸後期、広島地方からは2人の著名な儒者が出ている。当代随一の漢詩人と称され、郷土の教育に尽力した菅茶山(1748-1828)と、文化文政期の京都でサロン的に発生した文化人グループの中心人物として活躍、日本南画発展に大きく関与した頼山陽(1780-1832)である。また、菅茶山と同世代の山陽の父・頼春水(1746-1816)、叔父の頼杏坪(1756-1834)も儒者として大成、広島藩儒者をつとめ、画も多く残している。

菅茶山(1748-1828)
寛延元年神辺町生まれ。福山藩儒者・漢詩人。名は晋師、字は礼卿、通称は太中。明和3年、京都に出て和田東郭に医を、市川某に古文辞学を学び、のちに朱子学に転じて那波魯堂の門に入った。以来6度にわたって京都に遊学し、西山拙斎、頼春水、葛子琴、中井竹山ら京都・大坂在住の学者や文人たちと交流した。また、福山の神辺に村の子供たちの教育のため「黄葉夕陽村舎」を開き、のちにその施設を田畑とともに藩に献上した。郷校となった私塾は「廉塾」と呼ばれ、都講に頼山陽らを迎えた。茶山の塾には山陽道を往来する文人墨客が多数立ち寄っており「菅家往問録」にその名を残している。文政10年、80歳で死去した。

頼山陽(1780-1832)
安永9年大坂江戸堀生まれ。儒者・漢学者。6歳まで大坂で育ち、のちに広島に移った。諱は襄、字は子成またに子賛、通称は久太郎または徳太郎、憐二。別号に三十六峰外史がある。寛政9年叔父の頼杏坪に従って江戸に出て尾藤二洲に師事した。寛政11年御園道英の娘淳と結婚し、長男・聿庵をもうけるが、翌年突如として脱藩を企て、廃嫡となり、妻とも不縁となった。文化2年に赦免されるまで自宅に幽閉されたが、その間に学問に専念に礎を確立した。文化6年神辺にある菅茶山の廉塾に都講として迎えられたが、2年でこれを辞して京都に出た。京都では文化人グループの中心人物として、多くの文人墨客と交遊、多数の門人を輩出した。天保3年、53歳で死去した。

頼春水(1746-1816)
延享3年竹原生まれ。広島藩儒者。頼山陽の父。諱は惟完または惟寛、字は千秋または伯栗、通称は弥太郎。別号に霞厓、拙巣、和亭がある。先祖は三原の岡本から出たとされる。14歳で忠海の平賀中南に学び、明和元年京都、大坂に遊び片山北海の混沌社に入った。また、趙陶斎に師事し、21歳から15年間大坂の町儒者として活動した。天明元年広島藩儒者に登用され帰郷、程朱学による藩学の再興に努めた。文化13年、71歳で死去した。

頼杏坪(1756-1834)
宝暦6年竹原生まれ。広島藩儒者。頼山陽の叔父。諱は惟柔、字は千祺または季立、通称は万四郎。別号に春草がある。幼いころから学問を志し、長兄・春水、春風に倣い大坂に遊学した。天明3年春水に従い江戸に行き、服部栗斎に師事して朱子学を修め、1785年藩儒者に登用された。天保5年、79歳で死去した。

広島(11)画人伝・INDEX

文献:菅茶山ゆかりの絵画展、安芸・備後の国絵画展