大河戸晩翠(1845-1921)おおこうど・ばんすい
弘化2年2月12日吉田指笠町生まれ。真宗高田派願成寺の住職・福沢諦聞の四男。名は挺秀、幼名は霊台、字は守節。別号に梅笠、六聰散人、吉祥山人、馴雀園などがある。安政2年、11歳の時に、同派牛川の名刹正太寺の養嗣子として迎えられ十一代住職となった。仏典は伊勢の松山忍成師に、漢学は関根痴堂、小野湖山について学んだ。幼い頃より絵を描くのが好きで、稲田文笠の門に入り画を学び、梅笠と号した。
この頃の作品としては、文久2年に大村珠光院不動堂の内陣天井画作成に文笠一門として参加して描いた草花図三枚が残っている。安政5年には稲田文笠主催の書画展覧会に出品、この展覧会には、後に師と仰ぐ渡辺小華と、終生のライバルとなる鈴木拳山も出品している。明治6年文笠が66歳で死去すると、崋椿系南画に傾注しはじめた時代の風潮に従い、小華の門に入り南画の奥儀を極め、東三河における小華門の第一人者として名声を高めた。
小華の上京後は、深く画を研究するため、大分県日田市の専念寺住職、田能村竹田門下の平野五岳をたずね、その画風の会得につとめたりもした。生涯仏道のために身を尽くすかたわら、興学にもつとめ、正太寺では江戸時代中頃から寺小屋を創設し、晩翠自ら読み書き、算術を指導して村民の教育につとめ、明治5年の学制発布により寺小屋が廃止された後は、小学校創設の必要性を説き、明治6年に牛川村中郷に第九中学区第四十二番小学牛川学校が開設され、歴代校長に名を連ねた。大正10年10月18日、77歳で死去した。
井村常山(1839?-1925)いのむら・じょうざん
茨城県鹿島町の人。名は貫一、初号は百籟で、のちに常山と改めた。明治11年に愛知県八等警部として赴任、12年に渥美郡書記に転任した。書を中沢雪城に師事し、画を小華に学んだ。晩年は各地を遊歴し、大正14年、東京で86歳で死去した。
植田衣洲(1855-1925)うえだ・いしゅう
安政2年10月16日渥美郡高須新田生まれ。吉田藩御用達植田七三郎(六代敏樹)の二男。幼名は耕三郎、名は新寛、字は耕圃、通称は七三郎。松月堂古流の活花を幽照軒五道に学び、垂蔭亭苔石と称した。画は小華に学び、崋椿系南画を受け継ぎ、牡丹、菊を得意とした。三ツ相栄昌寺観音堂天井画作成には大河戸晩翠、森田緑雲らとともに小華一門として参加。緑雲、晩翠なきあとは、三河のおける小華門の長老として活躍した。大正14年4月19日、71歳で死去した。
渡辺華石(1852-1930)わたなべ・かせき
名古屋の旧藩士で、名は小川静雄。明治10年頃、渥美郡役所の書記として在任した。小華門人の中でも前途を嘱望され、明治15年に小華が東京に転出した際には、前後して上京し引き続き小華の教えを受けた。明治20年に小華が死去すると、渡辺姓を名乗り、華石と号した。晩年は小室翠雲とならぶ南画界の両大関の観があったといわれる。崋山、椿山の鑑定にもすぐれていた。昭和5年11月6日、79歳で死去した。
井上華陵(1862-1930)いのうえ・かりょう
田原の旧藩士で、通称は井上泰次郎。別号に華斉、明聲館がある。小華に師事した。八名郡の小学校、仁崎小学校などで教鞭をとり、退職後は神官となった。崋山の鑑定に精通し、同郷の鏑木華国とともに、崋椿系の鑑識には定評があった。昭和5年、71歳で死去した。
鏑木華国(1868-1942)かぶらぎ・かこく
慶応4年渥美郡田原生まれ。祖父は田原藩士。名は武輔。銀行に勤務する傍ら小華に師事した。井上華陵とともに崋椿系の鑑識に定評があった。明治40年10月、「崋山先生七十年祭記念遺墨展覧会」を田原町で開催した際に、出品作300点の中から200余点を選び、これに不出品の名作20点を加えて「渡辺崋山遺墨帖」を編集するなど、崋山顕彰のため尽力した。昭和17年6月5日、75歳で死去した。
東三河(6)-画人伝・INDEX
文献:東三画人伝