江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

崋椿系が根付く前の東三河画壇(1)

左:恩田石峰「西王母図」、右:稲田文笠「寿帯鳥図」

後に絶大な勢力となる崋椿系が根付く前の東三河では、円山・四條派を学んだ恩田石峰や原田圭岳、そして谷文晁に学んだ稲田文笠らが中心的な画人だった。ほかには海山宗恪、三宅友信、金子豊水、大河内信古らがいた。さらに文笠の門下である鈴木拳山、大河戸晩翠らが出るが、大河戸晩翠は師の文笠亡き後は、小華門下の第一人者として活躍した。

中村石鶴(不明-不明)なかむら・せきかく
文政・天保頃の医者・画家。田原の中村家は刀圭(医術)界の名家で、石鶴は医術の傍ら京都の田中日華に画を学び、余技としてよく描いた。

岸翠(不明-不明)がんすい
蒲郡の人。永島蕉六という。京都に出て岸派に画を学んだ。

楽庵(不明-1844)らくあん
通称は茶七、別号に一樹道人がある。港町に住み、書道をもって一家を成し、余技として画も描いた。弘化元年に死去。

辻内文福(不明-不明)つじうち・ぶんぷく
徳川幕府の役人で、谷文晁に画を学んだ。吉田橋架け替え工事の際に、弘化2年11月から翌年の5月まで服部弥八方に宿泊し、作品を残している。

福谷水竹(不明-1850)ふくたに・すいちく
本名は福谷藤左衛門、諱は世黄。吉田西町で油屋を営む素封家(大金持ち)で、岡崎の青々處卓池に師事した。俳名は涼石居水竹といい、狂名を赤守と称した。吉田に正風俳諧を広めたのは水竹の力といわれる。茶道は不蔵庵龍渓和尚に学び、傍ら俳画をたしなんだ。嘉永3年正月、64歳で死去した。

佐藤大寛(不明-1848)さとう・たいかん
字は栗、若水の子。叔父の南澗に育てられた。茶道を堀内宗完に学び、画を鈴木鳴門に学んだ。嘉永元年、75歳で死去した。

鈴木三岳(不明-1854)すずき・さんがく
新銭町の人。通称は與兵衛。別号に再少年・椎の舎三岳がある。青々處卓池に俳句を学び、俳画をたしなんだ。渡辺崋山とは特別に親密で、崋山の作品を吉田で頒布し、崋山幽囚後の渡辺家の家計を助けたという。嘉永7年9月4日、60歳で死去した。

佐藤白麟(1833-1856)さとう・はくりん
船町の佐藤市十郎の子。大口蓊山の祖父・大口喜園の甥。通称は俊三郎、別号に文陵がある。幼い頃から画を好み、梅鄰・石峰に指導を受けた。その後、京都に出て塩川文麟に師事し「文陵」の号を受け、四条派の画をよく描いた。安政3年、24歳で死去した。

横山文堂(不明-1856)よこやま・ぶんどう
吉田藩主・松平信順に仕えた画臣で、谷文晁に師事した。信順の命でいろいろなものを写生し、これを集めて綴ったものが大河内家に残っているといわれる。安政3年に死去。

山田香雪(1817?-1857)やまだ・こうせつ
吉田藩の御画師・山田洞雪の子。名は意誠、別号に眞誠斉がある。父・洞雪の没後に吉田藩主の信宝・信璋に仕えた。狩野真笑の門人で、日光廟の修繕の際に師と共に従事したという。安政4年7月、40歳で死去した。

東三河(3)画人伝・INDEX

文献:東三画人伝