江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

東三河随一の画人・太田山陰

太田山陰「五百羅漢尊像」

江戸中期に赤坂(現在の豊川市)で活躍した太田山陰は、当時、東海道第一の画人と称されており、東三画人伝には「文化・文政以前における東三河地方随一の画家は山陰であろう」と記されている。平成24年に豊川市桜ヶ丘ミュージアムで開催された「とよかわの美術家たち」には、色鮮やかななどが出品され、展覧会図録には「細やかな線描の人物表現の色彩の美しさには目が奪われる。絵具が退色せず現在まで高い発色を保持していることから、確かな技術を習得していたことが伺える」と記されている。また、この展覧会の際の調査で、豊川市八幡町の西明寺に残っている4点の作品が確認されており、「いずれも質の高い出来栄え」だという。

太田山陰(1727-1792)おおた・さんいん
享保12年赤坂生まれ。父真田某、母今村氏の9人兄弟の3男。名は皓、字は白駒、別号に田皎があり、壮年には大夢堂、宮道山樵とも号した。幼い頃より多才で、詩文の分野でも才能を発揮したが、なによりも画を描くことに長けており、画の業績は当時から高く評価され、人をして非凡の才といわしめた。画は南蘋派の影響を受けており、諸葛監に学んだと思われる。寛政4年、66歳で死去した。

政池子董(1761-1839)まさいけ・しどう
宝暦11年生まれ。太田山陰の甥。名は威、字は子童。別号に遠恥がある。薬種を業としていた。和漢の学に通じ、漢画をよくした。叔父の山陰に学び、異なる画風だったと伝えられるが、現存する作品は確認できていない。天保10年死去。

東三河(2)画人伝・INDEX

文献:東三画人伝とよかわの美術家たち