江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

岩田専太郎と挿絵画家の双璧と謳われた志村立美

志村立美「からっ風」

志村立美(1907-1980)は、群馬県高崎市の質店の長男として生まれたが、3歳の時に質店が倒産し、一家で東京の本所に移住した。しかし、すぐに暴風雨に見舞われ、その1年後には横浜に転居した。横浜では、父親は質店を営んでいた経験を生かして野沢屋(現在の横浜松坂屋)の呉服部に勤務した。

立美は、幼いころから絵を描くことが好きで、15歳の時に画家を志し、父親が勤務していた野沢屋に出入りしていた模様師(衣装図案家)の山川霽峰に内弟子として入門した。しかし、霽峰の子である山川秀峰が描く美人画に魅せれ、秀峰に入門しなおした。

雑誌に挿絵を描いていた秀峰のもと、立美も挿絵を描くようになり、18歳の時に「愛児の友」の口絵に「岩見重太郎」を描いて挿絵画家デビューを果たした。その後も順調に講談社などの雑誌の挿絵を手がけ、林不忘の新聞連載「丹下左膳」の挿絵を描いたことによって、広く名を知られるようになった。

30歳頃には岩田専太郎(1901-1974)、小林秀恒(1908-1942)とともに「挿絵界の三羽烏」と称されるようになったが、小林は早世したため、立美と岩田は「挿絵画家の双璧」と謳われ、戦後も華々しく活躍した。

昭和39年、57歳の時から徐々に挿絵の仕事を控え、手がけていた「銭の花」が完結すると、65歳から日本画の制作に専念した。各地で美人画展を開催し、昭和51年には『画集・美人百態』を出版して日本作家クラブ賞を受賞。2年後には画集『かんざし』を出版した。

71歳の時に新たな境地を拓くためインドネシアのバリ島を取材、その翌年もバリ島を訪れ精力的に活動していたが、体調を崩し73歳で死去した。

志村立美(1907-1980)しむら・たつみ
明治40年高崎市生まれ。質店の長男として生まれたが、3歳の時に質店が倒産、東京に移住した。1年後に横浜に転居。本町高小から神奈川高工図案科に入学したが、1カ月で退学して模様師・山川霽峰に入門した。震災で豊岡村(高崎市)に移住し、4カ月写生に明け暮れたのち、上京して霽峰の子・秀峰の内弟子となった。18歳の時に「愛児の友」の口絵に「岩見重太郎」を執筆、ついで「毎夕新聞」連載・邦枝完二作「接吻市場」を手がけた。この年から「立美」の号を使うようになった。その後も講談社などの雑誌に挿絵を描き、林不忘の新聞連載「丹下左膳」の挿絵を描き名を高めた。晩年は美人画も描いた。戦前から文士劇で活躍し女形もやった。昭和46年日本出版美術家連盟理事長、日本作家クラブ副理事長に就任。昭和49年出版美術家連盟会長。画集に『美人百態』『かんざし』などがある。昭和55年、73歳で死去した。

参考:UAG美人画研究室(志村立美)

群馬(36)-画人伝・INDEX

文献:志村立美 かんざし、群馬県人名大事典