鶴岡政男(1907-1979)は、高崎市砂賀町の建築金物製造を営む家に生まれた。親の転居に伴って兵庫、東京、高崎を転々としていたが、小学校5年生の時から東京で暮らすようになり、大正10年に文京区本郷高等小学校を卒業、翌年太平洋画研究所に入って本格的に絵を学びはじめた。ここで井上長三郎、靉光、寺田政明、松本竣介らと知り合った。
鶴岡はこの研究所に7年間在籍したが、昭和3年、研究所の保守的な体質に反発したため、井上ら約20名とともに除名処分となり、翌年除名された仲間とともに新団体「洪原会」を結成した。
さらに、これに飽き足りない同志10名とともに洪原会を解散して昭和5年に「ノヴァ美術協会」を結成したが、特高警察の干渉が強くなった昭和12年の第7回展を最後に解散、鶴岡も同年兵役に服して中国に渡り、昭和15年の兵役解除まで制作は中断した。
昭和18年、松本竣介らと「新人画会」を結成。戦時下の戦意昂揚と距離を置き、芸術性に立脚した活動を展開し、一時は左翼運動にも参加したが、利害が先行した運動に失望して撤退した。この頃の初期作品は、昭和20年の東京大空襲でほとんど焼失しているが、「髪の連作」などの軍部を風刺したものが描かれている。
戦後は「新人画会」のメンバーたちとともに自由美術家協会に合流し、自由美術展をはじめ、日本国際美術展、現代日本美術展、サンパウロ・ビエンナーレなどに出品し、戦争に手を汚した人類を描いた「重い手」(掲載作品)や「夜の群像」(掲載作品)をはじめ、原子爆弾を風刺した「人間気化」など、戦後の日本美術界を代表する作品を次々と発表した。
昭和36年には幻覚剤を注射して作品を制作するというテレビ番組の美術実験に出演して話題を集めた。その後はパステル画の作品が増え、昭和38年のポコシリーズ、昭和39年の恐山シリーズ、昭和40年の「青いカーテン」などがある。昭和51年に腹膜炎の手術で入院し、翌年肺真菌症で再入院した。昭和54年,、群馬県立近代美術館で代表作を網羅した「戦後洋画の異才 鶴岡政男の全貌」展が開催されたが、会期終了の3日後に72歳で死去した。
鶴岡政男(1907-1979)つるおか・まさお
明治40年高崎市生まれ。実家は建築金物製造業。大正2年高崎南尋常小学校に入学するが、翌年には兵庫県神戸市に転居、大正4年一家で上京し、大正10年文京区本郷高等小学校を卒業した。翌年太平洋画会研究所に入り、ここで井上長三郎、靉光らと親交を結び、昭和5年ノヴァ美術協会を結成した。昭和12年応召し中国で兵役についた。昭和18年新人画会を結成。昭和20年の東京大空襲でそれまでの作品の大半を焼失した。昭和22年自由美術家協会の会員になった。昭和24年北荘画廊で初の個展を開催。同年第1回群馬自由美術展に参加した。昭和25年第1回県展に招待出品。昭和54年群馬県立近代美術館で個展が開催されたが、同年、72歳で死去した。
群馬(31)-画人伝・INDEX
文献:生誕100年 鶴岡政男展、群馬の近代美術、群馬の美術 1941-2009 群馬美術協会の結成から現代まで、北関東の近代美術、群馬県人名大事典