江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

田崎草雲に学び伝統的南画を描いた岸浪柳渓

岸浪柳渓「陶淵明帰去来・弾琴図」

岸浪柳渓(1855-1935)は、仙台藩士の医師・岩浪広盟(謙輔)の三男として、江戸下谷に生まれた。幼いころ、風疹と麻疹のため聴力を失った。10歳の時から5年間を仙台で過ごし、藩の儒者・大槻磐渓について兄とともに漢学と書法を学び、藩の画員・東東莱に絵を学んだ。15歳頃から磐渓の紹介により江戸の福島柳圃に学び、18歳の時に柳圃の紹介で足利の田崎草雲に入門した。

明治9年、21歳の時に父と死別し、生活苦から弟2人とともに東京芝の妙定院に入り、仏門の修行をはじめたが、院主在舜に画才を認められ、北陸金沢の知人を紹介され当地に移り、作画修業に励んだ。一時、京都の中西耕石に師事し、その間、同門の池田雲樵を通じて前田暢堂にも学んだとされる。

明治11年に田崎草雲に再入門、草雲の紹介で館林の岡戸仙渓宅に仮寓した。この頃、師の福島柳圃と大槻磐渓から一字ずつもらって「柳渓」と号するようになった。また、明治14年には仙渓の媒酌で地元の料理屋「しがらき」を経営する中島家の長女もとと結婚し、中島姓を名乗り、二男一女を得た。

しかし、明治24年、36歳の時に離婚、二男定司(のちの岸浪百艸居)を伴って、東京下谷の兄尊司のもとに身を寄せ、再度岸浪姓に戻った。その後、定司とともに新潟、富山を放浪していたが、明治28年、40歳の時に金沢で再婚、再び画業に専念するようになった。

金沢では、北陸絵画共進会の若手作家を指導していたが、明治34年、46歳の時に宮内省から「四季耕作之図」制作の依頼を受けたのを機に東京に転居、その翌年皇室に献上した。その後、東京で日本美術協会や日本画会などに展覧会に出品した。

大正5年、61歳の時に帝室技芸員に推挙されたが、耳の患いを理由に辞退。この頃から、展覧会出品をやめ、群馬、新潟、香川など各地で画会を開き、南画の普及につとめた。中国の山水や故事などを題材に伝統的な南画を継承する一方で、富士山の絵も得意とし、それらは「柳渓の富士」とも称され注目された。

田崎草雲のもとで学んだ同門の画家としては、館林の小室翠雲をはじめ、太田の田中草辰(1847-1927)、前橋の毛呂桑陰(1854-1930)、館林の車崎天真(1878-1932)のほか、相場古雲、福田松琴、古川竹雲、牧島閑雲、藤原草丘、蜂須秀雲、新井笑雲、阿部茶村、伊藤天沖、真下耕山、荻野適斎、岡戸仙渓らがいる。

岸浪柳渓(1855-1935)きしなみ・りゅうけい
安政2年江戸生まれ。仙台藩士の医師・岸浪広盟の三男。幼名は駒三郎、のちに東明、静司と名乗った。字は台郷。別号に華圃、柳華圃、信楽、公卿、百千閣などがある。仙台藩の儒者・大槻磐渓に書と漢学を、東東莱に絵を学んだ。その後江戸の福島柳圃に入門、明治5年柳圃の紹介で足利の田崎草雲に入門した。その後、関西の中西耕石に学んだのち草雲に再入門。その後、新潟や富山などを遊歴したのち金沢で画業に専念した。明治34年宮内省から「四季耕作之図」制作の用命を受けたのを機に東京に転居し、翌年皇室に作品を納めた。その後、日本美術協会や日本画会に出品した。大正5年帝室技芸員に推挙されたが、耳の患いを理由に辞退した。大正9年日本倶楽部で個展開催、同年画集『百千閣画譜』を出版した。昭和10年、80歳で死去した。

田中草辰(1847-1927)たなか・そうしん
弘化4年山田郡東今泉村生まれ。幼いころから画を好み、はじめ上杉勝重に入門して日光廟の彩色に随行、のちに田崎草雲に師事した。人物画を得意とし、特に達磨図を好んで描いた。内国勧業博覧会などでも受賞した。中年で筆を断ち政界に入った。昭和2年、80歳で死去した。

毛呂桑陰(1854-1930)もろ・そういん
安政元年生まれ。武蔵川越範士・樋口茂登次の二男。名ははじめ岩三、のちに真。別号に大年、環水堂主人、老皁館主などがある。12歳の時に藩主の転封に従って父とともに前橋に移り住んだ。藩校博喩堂に入り、遠藤快象、中西弘造らに経史を、画を皆川柳涯、河野東寧に、書法を戸井田研斎に学んだ。18歳の時に新田郡高岡村小学校教員になったのち、栃木県師範学校に入り、卒業して栃木県小学督業教師になったが、高岡村民の復帰請願に応え、再び同村小学校教員に戻った。この頃、田崎草雲に師事した。21歳の時に新田郡世良田村の旧族毛呂家に入婿し毛呂姓になった。その4年後上京し、安田老山、滝和亭に学び、成瀬大域にも師事した。昭和5年、76歳で死去した。

車崎天真(1878-1932)くるまざき・てんしん
明治11年邑楽郡三野谷村生まれ。本名治平。幼いころから画を好み、画家になるため生家を弟に譲り、14歳頃に古川竹雲に学び、さらに竹雲の紹介で竹雲の師匠にあたる田崎草雲に師事した。明治33年、22歳の時に足尾鉱毒停止請願行動の一員として単身銅山に入り、内部の見取り図や状況などを描写し、被害各地を巡回して実態を記録し、援助に尽力した。その後、諸国を遊歴し、帰郷後に小学校・中学校の図画専科教師をつとめた。教え子に彫刻家の藤野天光、版画家の藤牧義夫らがいる。また、「新聞縦覧器」「複式透視法による名所案内器」の特許も取得している。昭和7年、54歳で死去した。

群馬(18)-画人伝・INDEX

文献:群馬の絵画一世紀-江戸から昭和まで、上毛南画史、郷土の芸術家たち、りょうもうの美術館名品展