柿沼山岳(1774-1859)は、安永3年、武蔵国加須(現在の埼玉県加須市)に生まれた。若いころ江戸に出て、亀田鵬斎に師事して漢学と画技を学んだと思われる。諸国遊歴ののち、32歳の時に上州に入り、上野国新田郡木崎宿(現在の群馬県太田市)に住んだ。池大雅に私淑し、自作の書画には好んで「大雅堂」の落款印を押したので、「木崎大雅」とも呼ばれた。
木崎では、私塾「南習館」を開いて近郷の子らに学問を教え、漢方医のかたわら、作画にも精進した。門人としては、角田岱岳、利根川月海、木内晋斎らがいる。天保年間、60歳代で江戸に移住したが、嘉永年間、20年近くを過ごした江戸から再び上州に戻り、以後上州各地を遊歴した。特に利根、吾妻での滞在が長く、多くの作品を残している。
柿沼山岳(1774-1859)かきぬま・さんがく
安永3年武蔵国加須(現在の埼玉県加須市)生まれ。本名は數、字は君超、諱は羊羨。別号に青雲舎、大雅堂がある。経歴は不確かな点が多く、江戸に出て下谷に住んでいたとされるが、もっぱら新田郡木崎で制作したとされる。山水、人物を得意とした。安政6年、85歳で死去した。
群馬(2)-画人伝・INDEX
文献:群馬県人名大事典、上毛南画史