豊かな森林に恵まれた飛騨では古くから木工が盛んで、飛騨の匠(たくみ)と呼ばれる大工や木工師が全国各地の宮殿や寺院の建立に携わった。「飛騨の匠」にまつわる伝説は多く、歴史に名が残っている最初の画家といわれる百済河成は、飛騨の匠・檜前杉光と腕くらべをしたと『今昔物語』に記されている。
また、全国各地に作品が残っているにもかかわらず実在したかどうか不明である彫刻の名手・左甚五郎も飛騨ゆかりの人物とされ、名前の由来は左利きだったからとも飛騨に住んでいたからだともいわれている。
『飛騨の系譜』(桑谷正道著)は左甚五郎について、「左というのは右腕を切られて左で仕事をしたためとか、飛騨で生まれたためとか、諸説があって一定していない。そのほか、あれは講談師が扇子の先から叩きだしたもので、実在していないという説もあって、百家奏鳴の賑やかさである。飛騨の郷土史家の一部には不在説を支持して、飛騨とは関係のないことだという人もいる。これに対して四国の高松市に在住し、左甚五郎の九世七代を名のる左光挙氏は、『甚五郎は刀禰松といった幼時、七才から十三才まで飛騨の高山に母の綾江と共にいた』と、例証を挙げて反論するが、軍配はどちらにもあがっていない」と記している。
百済河成(782-853)くだら・の・かわなり
延暦1年生まれ。先祖は百済の出身で、本姓は余という。武勇に長じ、大同3年左兵衛府の舎人として出仕した。絵画の才能を発揮し、描く人物や山水草木は「自生の如し」と称賛された。『今昔物語』第24に斐太の匠と技くらべをした話がある。
曽我秀文(1452-1530)そが・しゅうぶん
享徳元年生まれ。明国からの帰化人。本姓は李。俗に飛騨秀文という。曽我派という一派をなし、多くの有名画家を輩出した。戦禍の世をいとい応永のころ飛騨に来た。白川郷の照蓮寺に寄食し、のちに石浦村坂口に定住した。享禄3年、79歳で死去した。
左甚五郎(不明-不明)ひだり・じんごろう
彫刻の名手。実在したのか不明。東照宮の「眠り猫」など甚五郎の作とされるものは全国に多い。名前の由来は飛騨に住んだことがあるからとも、左利きだったからともいわれる。父の伊丹正利の死後、高山城主の金森重頼の客分として高山にあった河合忠左衛門(母の兄)に7歳から13再まで居住し、幼名を刀弥松と称し、遊佐法橋与平次の弟子として京都に出た、という説がある。
岐阜(10)-画人伝・INDEX
文献:飛騨の系譜、飛騨人物事典