江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

秋田(3)-ネット検索で出てこない画家

江戸中期の画家(2)
渡辺洞昌(初代~五代)
初代:渡辺益清。寛文4年生まれ。宝永5年に法橋の位を得て、正徳2年に秋田に来た。四代藩主佐竹義格の時代。元文2年死去。
二代:渡辺方慶。元文3年生まれ。名は孝都。別号に洞泉、元昌がある。江戸の洞春に師事したといわれる。寛政2年死去。
三代:渡辺方富。享保16年生まれ。名は元機、または元喜。江戸の洞春に師事したといわれる。九代藩主義和の時代。寛政9年死去。
四代:渡辺愛信。幼名は宗順、のちに愛信と改めた。小滝宗運の二男。享和のころ四代目洞昌を継いだ。法橋の位を持ち、義和時代の御用絵師をつとめた。江戸の狩野洞白の門。鐘馗を得意とした。『集古十種』の下書きや、当時の風俗レポート『羽州風俗問状答』の挿絵を狩野秀水と描いたらしい。
五代:渡辺愛恒。幕末の人。安政2年死去。

津村洞仙
文化元年生まれ。名は重信。渡辺洞昌に師事。安政3年8月、53歳で死去した。

菅原寅吉
秋田蘭画家。菅原北明の父。文化の頃、秋田の千家生花一七世を宗久と争って敗れ、新たに松亭流を設けた。生け花では応機斎其得と号した。蘭画の代表作に《蝦蟇仙人》(個人蔵)がある。平野政吉コレクションの伝寅吉の《牡丹》には、蘭香釣人の署名がある。

二葉膠山
名は氏向。通称は勘左衛門。文晁の門人で秋田江戸邸に住んだ。孫に小室怡々斎がいる。文化年間に54歳で死去した。

片山無知
享保20年生まれ。伊賀の人。別号に華岳。諸国に遊び、文化3年秋田に来て吉成氏に仕え、その年の9月2日、62歳で死去した。

是山
享保17年2月15日由利郡北内越村字赤田に生まれる。田口長三郎の長男。幼名は大助。2歳の時、南無阿弥陀仏を口まねし、5歳にして草刈りがまで仏像を彫って人々を驚かせたという。22歳の時に竜門寺を訪ね剃髪し是山という名を受けた。赤田五峰山の大仏を建てたのは天明6年、55歳の時で、堂塔大伽藍は寛政5年に完成した。これが今の正法山長谷寺だが、是山が建立した大仏は明治年間に焼失、今のものはその後再建したものである。文化8年7月15日死去。

荻津独元斎
延享3年生まれ。秋田蘭画家。八代藩主佐竹義敦時代の武士。名は勝孝、通称は孫太郎、八十八。兄の石橋造酒も天竺山人の号を持つ画家、子の勝益は花押研究家、孫の白銀斎は棒術と狂歌を得意とした。安永2年に鉱山視察にきた平賀源内から、小田野直武、田代雲夢らとともに洋風画を習ったとされる。代表作に《秋田風俗絵巻》《菅公像》《荻津夫妻像》《土崎湊絵巻》などがある。文化6年8月19日死去。

徹心
由利郡岩城町の竜門寺二十八世「大無」の諱。京都府の山城神応寺の東谷直伝の高弟らしい。若い頃から絵筆で持つことが好きで、よく虎を描いたので「虎和尚」と呼ばれていた。晩年、閑居してからは作画に専念し、文化10年70余歳の時に描いたダルマの図が本荘市の東林寺に保存されている。文化12年5月14日死去。

秋田(3)-ネット検索で出てこない画家

文献:秋田書画人伝