江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

角筈に住む水彩画家

美術家調査の文献に茅野健『新宿・大久保文士村界隈』を追加しました。
→『新宿・大久保文士村界隈

明治の終わりから終戦まで新宿・大久保界隈には、文筆家や芸術家をはじめ軍人や社会運動家など様々な人たちが住み、裕福な家系の者から貧しい絵描きまで、お互いの人生を絡ませながら刺激し合っていました。

表題の「角筈(つのはず)に住む水彩画家」とは、島崎藤村が大久保界隈のことを記した作品「芽生」に出てくるフレーズで、その部分を引用してみると

「角筈に住む水彩画家は、私と前後して信州へ入った人だが、一年ばかりで小諸を引揚げて来た。君は仏蘭西へ再度の渡航を終えて、新たに画室を構えていた。そこへ私が訪ねて行って、それから大久保辺を尋ね歩いた。」

というように、親しい画家のことを実名をあげずに記しています。この「角筈」とは現在の西新宿あたりの旧地名で、水彩画家とは三宅克己のことです。

島崎藤村(1872-1943)と三宅克己(1874-1954)は同じ明治学院に学び、小諸にある小諸義塾では同僚で、藤村が英語と国語を、三宅が図画を教えていました。

1905(明治38)年、藤村が小諸義塾を辞めて上京してくると、先に義塾を辞めて角筈に住んでいた三宅が西大久保の新居を紹介し、藤村はこの地で代表作『破戒』を完成させます。しかし、この頃の藤村は生活に困窮していて、三人の娘を栄養失調で亡くし、失意のまま一年半ほどでこの地を後にします。

三宅克己は、この大久保の素朴な風景や戸山ケ原の夕風そよぐ草原を好んで題材とし、第2回文展に出品した作品も、角筈の初冬の風景を描いたものでした。この地に住む文士や芸術家たちとも盛んに交流し、1912(明治45)年にともに光風会を創立した中沢弘光や山本森之助もこの地に住んでいました。

ツツジの名所として知られ、多くの文士や芸術家たちが交流していた新宿・大久保界隈も、現在では原色のネオンに彩られ、「近代的不良性」の交わり場として様変わりしてしまいました。