江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

浦上春琴に師事し長崎三画人にも学んだ塩田牛渚

塩田牛渚「花鳥図屏風」

会津藩の世臣の子として生まれた塩田牛渚(1828-1866)は、少年の頃には小姓として会津藩主・松平容敬に仕えていたが、幼いころから絵を描くのが好きで、専門絵師になるため、藩士離脱を願い出て職を退き、絵の修業のため越後に向かった。

越後では行田雲涛の手ほどきを受け、その後、京に上り、浦上春琴に師事した。さらに長崎に行き沈南蘋の画風を学び、広く和漢古今の画に親しみ、幕末の長崎三画人と称される鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門らとも交友して画技を高めた。

長崎での修業を終えた牛渚は、文久年間には京都三条木屋町に住み、絵師としての名声も得るようになっていた。そこに以前の上司、会津藩主の松平容敬が京都守護職として入京してきた。牛渚の評判を聞いた容敬は、さっそく牛渚の屏風を天覧し、その出来ばえを讃え賞を与えたため、牛渚の名声はますます高まっていったという。しかし、度を過ぎる飲酒のために命を縮め、38歳の若さで没した。

塩田牛渚(1828-1866)しおだ・ぎゅうしょ
文政11年生まれ。会津藩の世臣塩田権六の三男。本名は番、弁、升夫とも称した。小姓として松平容敬に仕えていたが、藩士離脱を願い出て職を退いた。はじめ越後で行田雲涛に師事し、その後、京都で浦上春琴に師事。ついで、長崎で鉄翁祖門・木下逸雲らにも学んだ。文久年間には京都三条に住んだ。門人に野出蕉雨らがいる。慶応2年、38歳で死去した。

福島(17)-画人伝・INDEX

文献:会津ふるさと大百科、野出蕉雨展、会津人物事典(画人編)