白河城下に生まれた巨野泉祐(1774-1837)は、16歳の時に仕官し、白河藩校・立教館容儀師範の手付となり、はじめて絵の御用に携わった。寛政7年には松平定信に画才を認められ、谷文晁に入門。寛政9年に『古画類聚』の清書事業を行ない、翌年には御目見格となって絵の御用掛となり、同年白河藩御用絵師となった。
以後藩絵師として、白雲らとともに『集古十種』の資料収集・模写を担当、畿内、山陽道諸国や奥州へ紀行し、各地の真景図制作などを行なった。また、藩絵師という立場から、定信の造園した庭園の写生記録、白河小峰城内の障壁画制作、肖像画の制作なども行なった。
文化8年には対馬に朝鮮使節対応のため絵師として林述斎に随伴し、往来の真景図を制作し、これを期に大野文泉から巨野泉祐と名を改めた。文政6年、定信が桑名藩に移封になったためこれに従った。
巨野泉祐(1774-1837)おおの・せんゆう
安永3年白河城下生まれ。白河藩御用絵師。白河藩士・大野斗内の子。初号は大野文泉。本名は安勝、はじめ万平、文泉などと号し、のちに号を泉祐、姓を巨野に改めた。文政6年の「三方領地替」による久松松平家の桑名移封に伴い同地に移った。天保8年、64歳で死去した。
福島(7)-画人伝・INDEX
文献:白河の歴史、白河を駆け抜けた作家たち、ふくしま近世の画人たち、定信と文晁、三重県の画人伝