雪村周継は、伊藤若冲や曾我蕭白に代表される「奇想の画家」の元祖とも称される戦国時代末期の画僧で、大胆な構図と奇態な人物描写で知られている。比較的多くの作品が残っているが、その生涯を伝える資料は少なく、不明な点も多い。
生地は常陸国(現在の茨城県)が有力とされ、佐竹家に生まれ幼くして出家し、画業の道を歩きはじめたと思われる。生涯京都には上らず、関東、南東北を活動の場とし、なかでも会津、三春には長く滞在している。
はじめて雪村が会津を訪れたのは50歳代半ば頃で、会津の城主・蘆名盛氏に画法を教えたとする資料が残っている。盛氏は会津を拠点とした戦国大名で、すぐれた武将であるとともに、文学や絵画にも強い関心を持つ好奇心旺盛な人物だったという。この時の雪村の会津滞在は長いものではなく、その後、小田原、鎌倉を訪れ、名僧や名画に接して画技を高め、独創的な表現を次第に確立していった。
二度目に会津を訪れたときには、雪村はすでに60歳代半ばになっていた。この時も会津の蘆名氏、三春の田村氏が有力なパトロンとなり、80歳代で没するまで、会津と三春(現在の福島県田村郡三春町)を拠点に活動している。この時期に描かれた「呂洞賓図」(掲載作品)は雪村の代表作で、雪村の「奇想」を決定的に印象付けた作品とされている。
雪村周継(1504?-不明)せっそん・しゅうけい
常陸国部垂生まれ。名は周継、俗名は平蔵。別号に如圭、鶴船、鶴仙老翁などがある。詳しい伝記は不明だが、常陸の佐竹氏の一族で、出家して画僧になったと思われる。周文、雪舟を慕い、また中国の宋、元の画蹟を学んで、個性の強い画風を確立した。50歳代半ば頃に会津へと旅立ち、さらに小田原、鎌倉へと向かった。60歳代半ばから没するまでは会津、三春で活動し多くの傑作を残した。蘆名盛氏が永禄4年から11年にかけて会津向羽黒山に築いた岩崎城では、雪村が障壁画の筆をとった可能性も指摘されている。門下からは蘆名の家臣である西海枝太郎左衛門が出て、さらにその西海枝の門から雪閑、雪木、雪沢、俊慶らの画人が出たといわれている。没年は確定していないが、80余年まで生きたと思われる。
福島(1)-画人伝・INDEX
文献:会津の歴史(上巻)、雪村 奇想の誕生、ふくしま近世の画人たち、福島画人伝、会津の絵画と書、会津ふるさと大百科、会津人物事典(画人編) 、東北画人伝