筑後国山門郡柳川上町(現在の柳川市)に生まれた川辺御楯(1838-1905)は、守住貫魚、山名貫義、川崎千虎らと共に近代大和絵の黎明期を担った、明治初期を代表する大和絵歴史画家として知られている。しかし、同時期に活躍した他の大和絵師に比べ、御楯の系譜はのちの近代日本画の展開の中で次第に薄れていった。最晩年の弟子・中村岳陵は、例外的に一人気を吐いたが、将来を嘱望された長男の白鶴は22歳で早世、二男の佐見は筑水と号して日本美術協会展に何度か出品したが、結局実業界に進んだ。家督を継いだ三男の川辺旭陵美楯(1879-1931)は日本美術協会展を舞台に活動し、意気盛んに父の画業を継ごうとしたが、画家として大成はならなかった。
川辺御楯(1838-1905)かわべ・みたけ
天保9年筑後国山門郡柳川上町生まれ。幼名は源太郎。別号に鷺外、墨流亭、都多の舎、後素堂などがある。旧氏名を古賀源太郎と称し、家号を砥屋といった。6歳の時に狩野永錫の門人であった父に画を学び、ついで12、3歳から久留米藩御用絵師六代三谷勝浦友信の三男・三谷三雄にも学んだ。また、柳河藩中では平田篤胤の門人・西原晁樹に国学と有識故実を学んだ。他藩士から甲冑武術の故実や越後流の兵法などを教わり、さらに真木和泉にも故実、兵書を学んだ。安政6年、父が没して家督を継ぐがのちに脱藩して真木和泉について上京を図るが失敗。一時国事を断念したが、各藩の志士は御楯を頼って身を寄せたため出費がかさんで資産を失った。また、平野国臣、高杉晋作、村田蔵六らと交わり、朝鮮にも渡ろうとしたがならず、帰藩を乞い許されたという。明治維新後は藩命により上京して太政官に出仕した。この頃、土佐派の土佐光文に大和絵の画法を学び、狩野永悳に狩野元信の画法を学んだ。また、大国隆正と宝田通文に国学を、薗田守宣に故実を習い、近代大和絵の研究を深め、有識故実に精通した大和絵歴史画家として画名を上げた。明治15年第1回内国絵画共進会で銅賞、明治17年第2回展で銀賞を受賞、同年川端玉章、山名貫義らと東洋絵画会を結成した。明治22年に日本美術協会展で絵画研究会幹事に就任し、以後同展を主な発表の場とした。明治38年、69歳で死去した。
川辺白鶴(1871-1892)かわべ・はっかく
明治4年生まれ。川辺御楯の長男。名は白鶴、号は九皐。画を父に学んだ。明治19年、16歳の時に絵画共進会で銅賞を受賞し、画技もますます上達し将来を嘱望されたが、明治25年、22歳で死去した。
川辺旭陵美楯(1879-1931)かわべ・きょくりょう・みたて
明治12年生まれ。川辺御楯の三男。名は彪。明治25年に日本美術協会秋季展に初出品、以後同展を活動の場とし受賞を重ねた。現存する作品が少なく、画業は不明な点が多い。昭和6年、53歳で死去した。
福岡(12)-画人伝・INDEX