筑前秋月藩の御用絵師・斎藤秋圃(1769-1861)は、京都に生まれ、円山応挙に学び、応挙没後は森狙仙に師事したと伝えられる。大坂時代の秋圃は、新町遊郭の風俗を題材とした「葵氏艶譜」の刊行などで知られている。その後、秋月藩の御用絵師になるまで、九州を巡り、肥前有田では陶器の絵付けや下絵の制作を手掛けたとされる。60歳で藩の絵師を退き、退隠後は福岡や大宰府などに移り住み、91歳で没するまで自由な立場で盛んに絵筆を振るった。家督は長男の相光が継いだが、天保9年江戸で出奔し家は断絶された。門人には吉嗣楳仙(1817-1896)、萱島鶴栖(1827-1878)らがおり、秋圃後の大宰府画壇は、吉嗣家と萱島家が基礎を築いた。
斎藤秋圃(1769-1861)さいとう・しゅうほ
明和6年京都生まれ。池上相常の子。幼名は市太郎。葵臻平、葵衛、又右エ門、宗右エ門とも称した。のちに斎藤姓に改めた。別号に相行、韋行、双鳩、土筆翁、穐圃、周圃、準旭庵、茗圃などがある。幼いころから画を好み、はじめ円山応挙に学び、応挙没後は兄弟子の森狙仙に師事したとされる。大坂時代は、遊郭・新町での日常生活や風物を軽妙に描いた「葵氏艶譜」三冊を刊行し、人気を博した。その後、長崎への画事修業を志し、途中、安芸の厳島に3年間滞在、その後博多に2ケ月滞在、有田では陶器の下絵や絵付けを試みた。長崎には享和2年、34歳の時に到着した。長崎では中国の画人・江稼圃に入門を申し入れたが、稼圃は秋圃の技量を認め、いまさら他流を学ぶ必要はないと称賛したと伝承されている。その評判が秋月藩主・黒田長舒の耳に入り、享和3年、35歳の時に秋月藩御用絵師に抱えられたとされる。秋月の「秋」と稼圃の「圃」をとって秋圃と号したとみられる。文政11年、60歳の時に家督を子の相光に譲り、秋月を去って博多に移り、のちに大宰府に移り住んだ。安政6年、91歳で死去した。
吉嗣楳仙(1817-1896)よしつぐ・ばいせん
文化14年生まれ。家は大宰府天満宮の神官。名は寛。別号に弄春園がある。梅仙、梅僊、楳僊などとも記した。はじめ斎藤秋圃に学び、のちに諸家に画を学んだ。明治25年に第1回内国絵画共進会に出品。絵馬の制作も多く、筑紫、筑豊地区を中心に100点以上が現在も残されている。明治29年、80歳で死去した。
萱島鶴栖(1827-1878)かやしま・かくせい
文政10年生まれ。秋月藩士・渡辺長衛左右の六男、のちに萱島重吉の養子となった。名は棟、または英棟。通称は謙助。別号に鶴棲園、聴松、双松斎などがある。15歳の時から斎藤秋圃、桑原鳳井、石丸春牛、村田東圃らに学び、19歳で京都に出て前田暢堂に師事した。帰郷後は秋月藩主の寵遇を受け、幕末には藩士の列に加わったという。吉嗣楳仙に比べて遺作は少ないが、秋圃の後の大宰府画壇の基礎を吉嗣家とともに担った。明治11年、51歳で死去した。
福岡(8)-画人伝・INDEX