江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

豊前小倉藩御用絵師・高木豊水と小倉の町絵師

高木豊水「百亀百鶴図」

小倉藩の御用絵師に関しては、残された史料が乏しく、存在さえも断片的にしか追跡できていない。記録に残るもっとも古い小倉藩御用絵師は、雲谷等益の門人で萩藩の絵師だった黒川等育で、小倉藩二代藩主・小笠原忠雄の時代、絵の修業のため九州を巡り、小倉を訪れた際、忠雄の所望に応じて描いた画が気に入られ、召し抱えられたとされる。次いで嘉永4年の『分限帳』に「画師」として山本一計と高木豊水の名前がある。山本に関しては経歴や作品がまったく不明である。高木豊水(不明-1858)は豊後日田生まれで、京都で四条派の岡本豊彦に学び、その後小倉に移り住んだ。門人に小倉藩の支藩である千束藩御用絵師の柏木蜂溪(不明-1879)がいる。小倉の町絵師としては、文化文政の頃に加賀国から小倉に移り住んだ四条派の石南園(不明-不明)、京都留守居役の西田直養との親交で小倉に来た円山派の村田応成(1816-1877)らがいる。

高木豊水(不明-1858)たかぎ・ほうすい
豊後日田生まれ。小倉藩御用絵師。名は巌。別号に青峨、筆庵などがある。桑屋和兵衛の二男で、のちに高木家の養子となった。広瀬淡窓と交遊があり、淡窓の日記にしばしば登場する。それによると日田で冀龍に画の手ほどきを受け、のちに京都に出て岡本豊彦に学んだとされる。淡窓の日記によると天保12年に小倉に移り住み、その後小倉藩に絵師として召し抱えられたとみられる。門人に柏木蜂溪がいる。安政5年死去した。

柏木蜂溪(不明-1879)かしわぎ・ほうけい
豊前京都郡大橋の人。初号は豊渓、のちに蜂渓と改めた。修業をはじめた時期は定かではないが、はじめ小倉に住んでいた四条派の画人・石南園に学び、その後同じ四条派で小倉藩御用絵師の高木豊水に師事した。嘉永年間に小倉藩の支藩である千束藩の御用絵師になったとされる。門人に馬場不別がいる。明治12年死去した。

村田応成(1816-1877)むらた・おうせい
文化13年生まれ。京都の出身で、円山派の絵師・円山応震に師事した。弘化2年、京都留守居をつとめ国学者としても知られる小倉藩士・西田直養の知遇によって小倉に移り住んだとされる。明治10年、62歳で死去した。

石南岳(不明-不明)いし・なんがく
越前国大聖寺の出身で、小倉城下大坂町に住んでいた。円山派に属し、設色の花鳥画を得意とした。

石南園(不明-不明)いし・なんえん
加賀国金沢の出身で、30歳くらいの時に小倉に移住した。四条派の画人で、石南岳の没後その画系を継いで石姓を名乗った。『龍銀成夢』では南岳の子としている。文政年中に死去した。

玉江蓬洲(1779-1848)たまえ・ほうしゅう
安永8年生まれ。小倉藩領の旧京都郡行事村(現行橋市)に本店を構える豪商・飴屋の七代当主。通称は彦右衛門、字は孝道。画を村上東洲に学び、咲羅屋旭の俳号を持つなど趣味人で、頼山陽、田能村竹田、岡本豊彦、雲華上人らと交遊した。弘化3年、70歳で死去した。

福岡(7)-画人伝・INDEX

文献:北九州ゆかりの絵師たち、御用絵師 狩野探幽と近世のアカデミズム福岡県日本画 古今画人名鑑、日本画 その伝統と近代の息吹き