江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

筑後柳河藩御用絵師・梅沢晴峩と北島勝永

梅沢晴峩「鷹摶撃雁図」

柳河藩においては、江戸初期から中期にかけての文書や書画類が多く焼失しており、御用絵師の存在を確認できるのは江戸後期になってからである。それ以前の柳河藩には、福岡藩の尾形家や久留米藩の三谷家のように代々家系を引き継いだ国住の御用絵師は存在しなかったのではないかと考えられている。確認できている御用絵師としては、江戸で御用をつとめた一代限りの絵師として梅沢晴峩(不明-1864)がいる。晴峩は木挽町狩野家で学んだ狩野派の絵師で、江戸城西ノ丸の障壁画復旧にも携わった。同じ頃、国元の柳川では、雲谷派に学んだ北島勝永がおり、仙蝶斎素峯、北野等永中野春翠も御用絵師であった可能姓は高い。

梅沢晴峩(不明-1864)うめざわ・せいが
柳河藩江戸詰めの御用絵師。別号に素絢斎、春香がある。江戸木挽町狩野家の晴川院養信のもとで学び、天保9年に焼失した江戸城西ノ丸の障壁画復旧にも晴川院の弟子として加わった。生年は不明だが、北島勝永と同世代であったと思われる。晩年は、鬼童小路の西に屋敷を賜って移り住んだとされる。子供がいなかったので、北島勝永の高弟、中島某を養子としたが夭折。その後、養子となった馨は絵師として後を継がなかった。 文久4年死去した。

北島勝永(1795-1867)きたじま・しょうえい
寛政7年上宮永村生まれ。北島利平太善春の二男。名は十造。別号に幽谷がある。8歳の時に久留米藩御用絵師三谷家五代永錫映信に学び、ついで16歳の時には筑前博多に住む狩野派・眠蝶斎耕景に学んだ。さらに2年後に大坂に行き、森周峯に入門。その4年後には肥後細川藩御用絵師の矢野良勝のもとを訪れ雲谷派の画法を修めた。文政4年に師の良勝が没し、その翌年か翌々年に柳川に戻ったとされるが、その後の動向は明らかではない。慶応3年、73歳で死去した。

仙蝶斎素峯(不明-不明)せんちょうさい・そほう
出来町竜蔵院の住職。多芸多能の人で、筑前の狩野派・眠蝶斎耕景の門人とされる。旧柳河藩主の立花家に作品が4点伝わっていることから、藩の御用絵師であった可能性は高い。福厳寺の板戸に描かれた人物密画は素峯の筆とされる。活動期は、北島勝永と同時期の江戸後期と思われる。弟子に冨次郎(南汀)がいる。

北野等永(1839-1915)きたの・とうえい
天保10年上宮永村生まれ。北島勝永の二男。別号に暘谷山人、山樵などがある。万延元年に北野甫哉の養子となって北野姓を継いだため、勝永と姓が異なる。御用絵師であったかどうかの史料は残っていないが、柳河藩分限帳に等永の藩への出任が確認される。また、北野家に伝来する史料の中に、藩用ととれる粉本がある。大正4年、77歳で死去した。

中野春翠(1838-1917)なかの・しゅんすい
天保9年北柳小路生まれ。中野彦市の二男。幼名は虎之助、のちに彦一。父の南強は柳河藩士で漢詩をよくした。幼いころから画を好み、はじめは隣家の斉藤末蔵に手ほどきを受け、さらに北島勝永に学んだ。文久元年、本格的に画を学ぶため京都に出て、鈴木百年の門に入った。元治元年、父にうながされ帰郷し、多病の兄にかわり嫡子として御広間御番をつとめた。維新後は、任一等黄隊伍長、陸軍軍曹給養掛、戸長、警察探索懸雇、町会議員をつとめ、そのかたわら画塾を開き、門弟を教育した。53歳から73歳まで高等小学校で図画教員をつとめた。大正6年、80歳で死去した。

福岡(6)-画人伝・INDEX

文献:柳川の美術Ⅰ御用絵師 狩野探幽と近世のアカデミズム福岡県日本画 古今画人名鑑、日本画 その伝統と近代の息吹き