江戸時代を中心に全国各地で活動していた画家を調査して都道府県別に紹介しています。ただいま近畿地方を探索中。

UAG美術家研究所

福岡藩御用絵師尾形家の絵師

尾形洞水「魚族図」

尾形家は、6代洞谷(1753-1817)の代になって、師家を鍛冶橋狩野家から駿河台狩野家に変更した。また、姓を公式に小方から尾形に改めたのも洞谷の代だった。7代の洞霄(1791-1863)は駿河台狩野家に入門し、江戸滞在中に洞谷の養子となった。嘉永4年、黒田藩江戸新御殿内部装飾の際には、子の8代探香(1812-1868)とともに、同門の秋元藩絵師・坪山洞山とその養子洞郁(のちの河鍋暁斎)らと、書院、座敷の障壁や天井に筆をふるった。慶応2年、洞眠(不明-1895)が9代を継いだが、明治元年家業御免となり、尾形家最後の絵師となった。

尾形洞谷(1753-1817)おがた・とうこく
宝暦3年生まれ。福岡藩御用絵師尾形家6代。藩士・納屋与兵衛の子。名は与市郎。12、3歳の時に尾形家に入門したと思われる。明和5年に同門多数の中から選ばれ守厚の養子となった。この頃養父の一字をとって「守周」と名乗った。天明元年養父が急逝したため家督を継いだ。初代以来師事してきた鍛冶橋家から駿河台狩野家への師家を変更し、駿河台狩野家の狩野洞春美信に師事し「洞谷美淵」の名を授かり、以後守義以来の「守」の字を廃止することになった。文化14年、65歳で死去した。

尾形洞霄(1791-1863)おがた・とうしょう
寛政3年生まれ。福岡藩御用絵師尾形家7代。幼名は大機。別号に聴松などがある。博多商人の子。享和元年頃洞谷に連れられて江戸に上がり、駿河台狩野家洞白愛信に師事。江戸滞在中の文化元年洞谷の養子となった。文化8年洞白から洞霄愛遠の号をもらい、10年越の修業を終えて帰郷した。晩年は聴松と号した。文久3年、73歳で死去した。

尾形探香(1812-1868) おがた・たんこう
文化9年生まれ。福岡藩御用絵師尾形家8代。尾形洞霄の長男。名は守葆。天保5年、参勤交代に従って江戸に行き、鍛冶橋狩野家に入門、探信守道に師事したと思われる。2代続いた駿河台狩野家との関係が一旦途絶えた。翌年の探信死去後は、子の深淵守真についたと考えられる。嘉永4年の黒田藩江戸新御殿内部装飾の御用を父とともに務めた。嘉永6年には長崎に赴き、来航中のロシア人使節団を活写して記録に残した。慶応4年、57歳で死去した。

尾形洞眠(1839-1895)おがた・とうみん
福岡藩御用絵師尾形家9代。名は守運、初名は幸吉。尾形探香の長男。画を祖父の洞霄に学んだ。10歳の時に祖父に連れられ江戸に行き、駿河台狩野の洞春陽信に師事したと思われ、洞眠陽晴と号するようになった。慶応2年家督を継いだが、明治元年家業御免となり、尾形家最後の絵師となった。明治28年死去した。

尾形洞水(不明-1807)おがた・とうすい
6代洞谷の実子として生まれたが、尾形家を継がなかった。駿河台狩野家洞白愛信に師事したと推測される。「尾形家累系」によると、狩野を学ぶかたわら洋画を研究したとあるが、遺作が少なく確認されていない。文化4年死去した。24歳の早世だったと推定される。

福岡(3)-画人伝・INDEX

文献:御用絵師 狩野探幽と近世のアカデミズム狩野派と福岡展福岡県日本画 古今画人名鑑筑前名家人物志